Die Blaue Nacht

狭間に咲く花

もう先の短い審神者を心配する小豆さんの話。

 四季が移ろう設定にしている本丸にも、秋がやってきた。涼風は金木犀の香りをはらみ、湿度の低い空は日に日に高くなる。

 そこに、唐突に目に入る、赤。
 彼岸花が咲いている。

 廊下の角を曲がると、彼の主が縁側に座っていた。柱にもたれかかり、庭を見つめていたのだが——それに気づいて、小豆は背筋が冷えた。姿を見るまで、彼女がそこにいると気づかなかったのだ。
 刀剣男士は付喪神である。生き物の気配には敏感で、それが彼らの主のものとなれば、姿を見るまでもなくそこにいるということは必ず気づくはずなのに。
 生き物の、生きているものの気配を、まるで感じなかったのだ。
 名前は小豆に気づかず、身じろぎもせず庭を見つめている。いや、何も見つめてなどいないのかもしれない。ただただ、名前の瞳には景色が映っているだけで——恐ろしい予感に、小豆の心臓が早鐘のように打ち始める。

「あるじ!」
 不意に響いた鋭い声にびくりと肩を震わせると、名前は驚いた顔をして声の方を振り向いた。険しい表情をした小豆の、険しい視線がそこにはあって、しかし目が合った途端、その険しさは霧消して、代わりに聞こえてきたのは大きな溜息だった。
「あ、え、小豆さん……?どうかしましたか?」
 名前が言う間にも小豆はずんずんと近づいてくる。
「もしかして私何かしました……?」
 不安げに顔を曇らせる名前の隣にまでやってきた小豆は、そのまま膝を付くと右手を名前の背中に回して抱き寄せ、左手で名前の手をぎゅうと握った。
「……すまない、すこし……ああ、いや、あるじがいたから、あんしんしたんだよ。」
 それだけ言うと、小豆はまた大きく息を吐いた。「安心」と聞いて、名前はそれが安堵の溜息だと気づく。
「すみません……ここに座ってたの、そんなに長い時間じゃなかったと思うんですけど、ぼーっとしてたみたいで。結構時間経っちゃってましたか?もしかして、みんなに探されてたりします?」
「いいや、だいじょうぶだよ、おどろかせてすまなかったね。」
 小豆が安堵する理由を、名前は知らない。自分から生者の気配が消えていたなど、知るはずもないし、小豆は知らせるつもりもない。代わりに小豆は腕の中の存在を、今は再び生の気を取り戻した存在を感じながら願う。
 ——どうか、ひとりでいかないでおくれ。
 握り込んだ細い手指は冷たい。それを、秋の風に当たっていたからだと己に言い聞かせた。

「小豆さん?」
 自分を抱きしめたまま黙り込んでしまった小豆に、名前は戸惑いの声を上げる。声をかけられた時といい、大きな溜息といい、今日の小豆はいつもと違う雰囲気だ。
 しかし背に回された腕や少しきつめに握られた手はいつも通りに暖かくて、逆にいつの間にか自分の体が冷えてしまっていたのだと気づかされた。やはり、それなりの時間が経ってしまっていたのかもしれない。

「私、そろそろ戻りますね。小休憩のつもりが、長く休んでしまってたみたいです。」
 がっしりとした腕を解いて立ち上がろうとしたところを、逆にもっと引き寄せられ、そうかと思うと手を掴んでいた左手が膝の裏に差し込まれて、あれよあれよと言う間に名前は小豆に抱き上げられてしまった。
「あ、小豆さん!」
 体が動かせない日など、抱きかかえて運ばれるのは珍しいことではないが、今日はいきなりだった。慌てて小豆の首に手を回し、体勢を整える。
「おどろかせてしまったおわびに、へやまではこばせてほしい。だめかな?」
 さっきまでの不思議な雰囲気はどこへやら、名前の大好きな優しい微笑みを湛えながらこめかみに口付けられた。

 名前を執務室まで運び、彼女の前を辞した小豆が考えていたのは、やはり先程のことだった。脳裏をよぎるのは、「彼岸に呼ばれている」という言葉。石切丸が少し前に言っていたことだ。
 そもそも異空間に存在し、そこに神が数多く住まうという時点で、本丸は現世から一線を画してしまっている。此岸と彼岸の間にある、と言えなくもないのだ。
 そんな場所に、人の子、しかも名前のような虚弱で病弱な人間が長く暮らせば、そうなるのは必然なのだ、と。苦しそうな顔をして、自分の見立てを語っていた。
 幸いにも、あるいは不幸なことに、自分の体の状態を正確に把握しているからこそ、名前は死を恐ろしいこととは考えておらず、またそれ故に、誰が諭そうとも現世に帰ろうとはしない。現世に帰ったからって長生きできるわけじゃないし、それならできるだけ長くみんなと一緒にいたい、帰ってもどうせ病院で死ぬのを待つだけ。そんなのは嫌。そう言われてしまっては、それ以上強く言える者などこの本丸にはいなかった。