Die Blaue Nacht

I’m not a prince any more than you are a princess./君がお姫様でないように、僕も王子様じゃない。

タイトルは「確かに恋だった」様からお借りしました。
歪な関係から抜け出せないジルベールとユージェニーの話。

「王子様が救い出してくれるのを期待してるっていうなら、やめた方がいい。こんなところに王子様なんて現れないし、知ってのとおり残念ながら僕も王子様なんかじゃない。まあ君だって……今はお姫様なんかじゃないだろう?」
 優しいのは声音だけだった。たっぷりと皮肉のこもったその言葉に、ユージェニー金色の瞳が見開かれる。次いで怒りの炎を燃やすようにその瞳孔が細くなるのを、ジルベールは何か美しい工芸品でも眺めるように黙って見つめていた。
 ジルベールは、自身も貴族の出ではあるが身分に頓着しない。というより、旧権的で貴族以外を人間として見ないような大貴族どもが嫌いだった。だから彼は基本的に、”そういう”大貴族どもに対してはいつだって辛辣で、時にはこうやって切れ味の鋭いナイフのような言葉を投げつける。だというのにユージェニー自身を傷つけたいわけではないとか、彼女には抗いがたい魅力があるとか、でもやはり彼の嫌う大貴族のご令嬢としての気質が見え隠れしてしまうだとか……要するに面倒な感情を抱いていて、それは彼自身も自覚していることではあった。
 だからと言ってそれを改めようとも思わないのがこの男であり、あんなことを言っておきながらユージェニーの頬をなでようとするあたり、この中途半端で、炙られるようなスリルと関係を楽しみたいと思っているのも事実である。

 対してその全てを見透かしたユージェニーは、ふつふつと湧き上がる怒りを我慢するつもりなど毛頭なかった。仮にもジルベールは客で……むしろ店としては上客の部類である。他の客であれば怒りをぶつけることなどさすがのユージェニーもしないが、この男は過去の自分を知っているし、彼女が怒ってみたり少しばかり手を上げてみたりしたところで、報復にひどい行為を強要するようなこともない。彼女としても業腹ではあったが、それがわかる程度には、ユージェニーはジルベールを知ってしまっていた。
「誰もお前に期待などしないわ!」
 立ち上がり、伸ばされた手を乱暴に振り払う。しかしそれをわかっていたのか、ジルベールは振り払おうとした手を捕まえてしまった。こうなることも想定内だったと言いたげなジルベールに、ギリ、と音がしそうなほど奥歯を噛み締めて、ユージェニーの美しい顔が悔しげに歪む。それすらも彼女の苛烈な美しさを損ないはしなかったが。
 ――と、ユージェニーの身体から力が抜けた。ジルベールを見下ろして、蠱惑的に優しく微笑んでみせる。自分が美しい容貌をしているのだと、大いに自覚している女の微笑だった。
「……キスしてあげるわ」
 唇を微笑のかたちにしたまま、掴まれた腕を引っ張ってジルベールを立たせた。
「どういう風の吹き回しかな」
「私だって、お優しい騎士様のお慈悲をいただきたい時もあるわ」
 ユージェニーの優しい微笑は魅力的だったが、その目は全く笑っていない。それはユージェニーもわかってやっているのだろうが、ジルベールもこの駆け引きを楽しむのも悪くないと思っていた。

 形だけは別れを惜しむ恋人同士のようだった。実際、ジルベールが買ったユージェニーの時間ももうほとんど終わっていたので、別れを惜しむキスと言えばそうだった……ジルベールが息を飲んでユージェニーを引きはがすまでは。
「残念――その小うるさい舌を嚙みちぎってやろうと思ったのに」
 先ほど見せた優しさなど、欠片も残さない高慢な笑みを浮かべてユージェニーは即座に離れていく。今度こそジルベールに掴まれたままの腕を振り払うと、す、と目を逸らして時計を見た。
「さあ、時間よ。出て行って」
 そのままジルベールに背を向けると引き出しから口紅を取り出して、キスで落ちた色を引き直す。二度とジルベールを振り返ることはなかった。
 危うく舌を噛み切られるところだった男は大人しく部屋を出ると、階段にかかっていた鏡に映る自身の顔を見て苦笑した。
 キスをしながら頬に添えられていたユージェニーの指が離れる時に思い切り爪を立て、彼の頬に二本の赤い線を残していた。