Die Blaue Nacht

あの時のことと、今のこと

お砂糖期ではありますが、そうじゃない時のことも出てきます。
2024ジューンブライドネタ。

 初めて見た夫は、ヴェール越しだった。
 
 顔も知らない男に、名前は嫁いでいく。
 ウェールズ家の長男で当主。顔は知らないが、しかし素性は知っている。そんな人物の妻になるのだ。彼の「お眼鏡に適った」のが名前だったから、名前は今ここに立っているのだが、互いに顔など知らない。だから彼が名前自身を気に入ったということはありえない。家柄と、ウェールズ家にとって益となるかどうか。それのみで選ばれたのだということは名前も重々承知している。貴族の家に生まれたのだから、そんなものだ。
 しかしそれでも名前は、これからの人生を添い遂げる夫となる人を愛することができるよう、幸せな夫婦になれるよう努力するつもりだった。
 ――初めて目にした夫となる男、アグロヴァルと目を合わせるまでは。

 ウェディングドレスの長いトレーンが優雅に絨毯の上を滑る。その上を覆うように、花嫁の顔を隠した長いヴェールがふわりと揺れていた。貴族らしい気品を湛え、名前は”夫”の待つ壇上へ向かう。階段を上り切ったところでアグロヴァルに手を差し出され、その手を取った。顔色を窺うようにちらりと見上げてみたものの、ヴェール越しで、しかも背の高いアグロヴァルの表情は窺えなかった。そもそももう名前の方を向いていない。彼は真っ直ぐに祭壇を見つめていた。

「幸せそうな表情を崩さぬようにせよ」
 不意に、隣に立つ”夫”から声をかけられた。名前にしか聞こえない小さな声だったが、それはしっかりと名前に届いていて……さすがは氷皇とでも言うべきか、氷のように冷たい声だった。
「……はい」
 名前とて、会ったこともない人物からの愛情など期待していたわけでははない。氷皇の評判もよく耳にしていた。とはいえ初めて自らに向けられた氷の刃のような言葉に、静かに一瞬だけ息を呑んだ。それでも「はい」と答えられたのは彼女の矜持のなせる技だった。ウェールズという国を挙げた祝典なのだから、自らに与えられた役割を精一杯果たすつもりだった。

 ヴェールが上げられる。
 初めて何も間に挟まずに見た夫は、それは美しく微笑んでいた。今日という日を寿ぎ、自身も幸せだというような見事な笑みだった。しかし、目だけは違う。アグロヴァルの赤みの強いブラウンの瞳が、ひたりと名前を見ている。その瞳に幸せそうな光はなく、ただ、ひどく冷たい目をしていた。
 値踏みをするでもなく、ただただ冷たい目。名前を政略結婚の相手としか見ていない目……それを目の当たりにして、せめて夫を愛する努力をしようという決意が揺らぐのが名前自身にもわかった。「お前を愛する気などない」と、目線だけで明確にそう伝わってきてしまったのだから。
 
 どうか、緊張しているだけのように見えますように。
 射抜くような冷たい視線に耐えられず、名前は目を伏せた。それを見計らったように、微かにアグロヴァルの唇が触れる。
 夫婦の誓いのキス。名前にとって、初めての口付けだった――

* * *

名前
 呼ぶ声に、はたと目を上げる。覗き込むような夫と目が合った。赤茶の瞳が細められる。
「考え事か?」
 名前が持ったままのソーサーとティーカップを、溢さないようにと受け取りながらアグロヴァルは微笑した。カップを持ったままで考え込むなど、あまり見たことがない姿だったからだ。
「あぁ――ごめんなさい、少し……そう、もう6月ですもの。わたくしたちの結婚式のことを思い出しておりました」
「結婚式? どちらの……」
「……最初の、式典の方ですよ」
 それを聞いて、アグロヴァルは少しばかりバツの悪そうな表情を浮かべた。執務中は決して見せることのない顔である。
 どちらの、と言ったのは、彼らが2度、夫婦の契りを交わしていたからだ。政略として行った初対面の日と、その後しばらくして2人だけで礼拝堂で愛を誓い合った日。名前が「最初の」と言ったのは、前者の方を指していた。
「そんなお顔をなさらないで。あの時は……初対面でしたし、アグロヴァル様がわたくしを警戒なさっていたこともわかっております。それがウェールズ家のためを思えば当然のことだというのももちろん存じております」
 アグロヴァルもあの時のことは覚えている。婚礼も含め、名前がアグロヴァルの信頼と愛情を勝ち取るまでの、愛情のかけらもない夫婦生活については、確かにウェールズ家に”部外者”を受け入れるにあたり、家を守るために必要なことだったとはいえかなり酷いことをしたという自覚がある。そのせいで名前はあの頃、自分の行動がアグロヴァルの機嫌を損ねるのではないかと全てにおいて怯えていた。アグロヴァルを見上げる深いブルーの瞳が怯えて震える様は、今でも鮮明に思い出せてしまう。今となってはもうずっと昔のように思えるが、たった1年前のことなのだ。
 しかし、あれからアグロヴァルの心も大きく変化した。結婚当初はそんなことになるとは思いもしなかったというのに、今、彼は名前を心から愛している。あの時を経験してなお、隣で寄り添おうとしてくれた妻だ。彼女が向け続けてくれる愛情に応えられることの、何と幸せなことか。

「わたくしが、愛するあなたに出会って1年、ですよ」
 アグロヴァルの心情を見透かしたように、今度は名前がアグロヴァルの顔を覗き込んでにっこりと笑う。その瞳はあの頃のことなど拭い去ってしまうかのような、優しく瞬く青い宝石のようだった。
 と、その青い宝石に逡巡するような色が混じる。一瞬言うかどうか迷うそぶりを見せたあと、名前は少し頬を染めた。
「――ああ、でも、……あの時のことを気にかけてくださるというのなら、……その、今日は、たくさん愛していただけますか?」
 
 恥じらいながらも言い終わった途端、名前はアグロヴァルにぐいと引き寄せられて、こめかみに口付けられた。力強く引き寄せた腕とは裏腹に、それは限りなく優しい。そしてそのまま頬を寄せるように密着して、今度は唇にキスされた。ひたすらに慈しむように唇を啄まれる。
「そんなもの」
 キスの合間に、微かに空気が揺れる。唇が触れ合ったたまま、アグロヴァルが囁いた。
 
 ――いつだって、愛しているであろう?
 続けて言いかけた言葉は音にならず、そのまま2人の唇に溶けていった。