Die Blaue Nacht

いいと言うまで目を閉じないで

凛くんが夢主にプロポーズする話。原作後時空。
お題はこちらからお借りしました。
http://nanos.jp/pencilwhite/

※付き合ってもう長い
※凛くんはフランスのリーグ、夢主はイギリスのバレエ団で活躍中
※変わる可能性めちゃくちゃある

「目に焼き付けとけ」
 凛は、彼にしては珍しく試合前に名前にメッセージを送っていた。スタジアムにはいないが、きっと今頃テレビをつけているだろう。
 リーグ最終節、今年の優勝をかけた大一番。チームにとっても彼にとっても節目の試合だった。自分のゴールで勝つ。生粋のストライカーである糸師凛はそう決めていた。そして、誰にも言ってはいなかったし、大勢のサッカー選手がやるようなあからさまなパフォーマンスなどさらさらする気はないが、この試合に勝利したら、とあるけじめをつけようと静かに激しく決意していた。
 
 凛の決意どおり、試合は接戦の末彼の決勝ゴールでの幕切れ。不愛想な彼はリーグ優勝の立役者だというのににこりともせず、いつものとおり「ゴールを決めるのなんて当たり前だろ」程度しか言わない。違ったことといえば、普段ゴールを決めてもカメラの存在になど全く頓着しない凛が、この日だけはゴール直後に思い切りカメラを睨んだことくらいだ。――世界は彼の視線を「カメラを睨んだ」と評したが、試合前にあのメッセージを受け取っていた名前は画面越しにどきりとした。無表情な中に開いた瞳孔が彼の内の高揚を如実に伝えてくる。ターコイズの鋭い視線が言っていた。「ちゃんと見てんだろうな」と。

 「目に焼き付けてね」
 名前は開場時間になると凛にメッセージを送った。返信は期待しない。名前自身、もうスマホなど見ている時間はない。
 劇場のこけら落とし公演。国内外からの注目度も高く、ファースト・ソリストに抜擢された名前のキャリアの大きな転機となることは間違いない。さらには珍しく恋人が見に来るのだ。凛のチームがリーグ優勝したのは三日前。シーズンも終わるところなので休暇が取れた凛が久しぶりに見たいと言いだして今に至る。
 
 演目も振り付けも演出もオーソドックスで、つまりはよく知られ親しまれてきたものだ。歴史と伝統を背負い、名前は広い舞台で舞い踊る。まぶしい照明を背負い、観客全員の視線を集めていた。「あなたのために踊ります」なんて言わないし、言えない。これはこの劇場のための舞台であり、このバレエ団のための舞台であり、名前のための舞台であって、彼のための舞台ではないからだ。しかし少しくらい私情を挟んでも罰は当たらないだろう。名前は暗い客席の中で、しっかりと凛を見つけていた。一瞬だけ目が合った気がしたのは、凛の気のせいではない。その名前が踊りを通して、全身で叫んでいる。「誰よりも私を見ていて!」と。

 終演後も少し時間がかかると名前が言っていた。撤収、着替え、挨拶。諸々あるのだ。凛は劇場の向かいにあるダイナーでひとり、時折コーヒーをすすりながら所在なげにスマホを眺めていた。今日は名前の家に泊まるつもりだ。合鍵など持っていないからこうして待っている。名前の家に泊まって、そして――きちんと伝えるのだ。このところずっと考えてきたことだった。所在なげに見えた彼のスマホ画面はずっと変わらないまま。能面のような表情の下で、凛は名前の姿を思い出し、これから起こるだろうことに思いを馳せていた。
 
 窓から劇場の方を覗くこと数回、急ぎ足で名前が出てくる。凛は残ったコーヒーを一気に流し込んで立ち上がり、店を出た。
「ごめんね凛ちゃん。待ったよね」
 きっちりとまとめた髪のまま名前が申し訳なさそうに笑う。画面や距離で隔てられることなく顔を合わせるのは数か月ぶりだった。凛の仕事をしない表情筋は再会の感情も彼の内面も表すことはなく、ただそっけなく「別に」と返すと、ごく自然に名前の手を握って歩き出した。手を握るのも数か月ぶりだ。互いに、自分とは全く違う大きさの手を懐かしいと思いながらバス停まで歩き、駅行のバスに乗る。駅で地下鉄に乗り換えて数駅。道中、凛のチームのリーグ優勝の話だとか、今日の公演の話だとかをしていたが、名前も疲れているのか、あまり口数は多くない。手はずっとつないだまま、肩や腕が触れる距離で静かに電車に揺られていた。
 駅を出て数分。名前のアパートが見えてくる。凛が不意に握る手に力を入れた。名前はどうしたの、と聞いたが、やはり「別に」と返ってきただけ。名前もそこまで気にしなかったが、後になってあれは凛の決意の最後の一押しだったのだと知ることになる。

愛称
「なにー?」
 家に着いて電気をつけ、荷物を下ろす姿を眺めながら恋人を呼ぶ。凛は内心の緊張とは裏腹に、いつも通りの声が出たことになぜだか安堵した。いつものように「愛称」と呼べば、いつものように気の抜けた返事が返ってくる。凛の心中になど欠片も気づかないそれに、そうじゃない、と不思議な焦燥が生まれる。だから凛は改めて呼んだ。
「――名前
「は、はい」
 今度は少し驚いたように、名前がこちらを振り向いた。「名前」なんて、一度たりとも凛から呼ばれた記憶なんてないのだ。
 呼んだまま先を続けない凛に、怪訝そうな顔をした名前が近づいてくる。リビングの明かりに、少しだけ色素の薄い名前の瞳が瞬いた。
「あ――クソッ……」
 何も知らない目をした名前を前にして、言葉が喉に引っかかる。代わりに出たのは焦りの滲んだ悪態だった。いてもたってもいられずに、ぐいと名前を抱き寄せた。
「え、なに、どしたの凛ちゃ……っん」
 細くしなやかな肢体を腕の中に閉じ込めて、驚きと戸惑いの声を上げる口をとりあえずキスで塞いだ。早く溢れさせてしまいたい思いが溢れられず、気付けばキスになっていた。
 すぐに唇は離れて、またしても、今度は焦りと、少しの切なさを滲ませる声で名前を呼ぶ。いつもとは違う声音と雰囲気に、名前も何かが違うと気付いたようだ。キスの余韻もそこそこに、真面目な顔をして凛の次の言葉を待っている。もう戻れない。一度きつく目を閉じて、凛は続けた。
 
「ちゃんと、見てろ。ずっと側で……ずっとずっと側で、俺のこと――」
「凛、ちゃん……それって……」
 凛の腕の中、弾かれたように顔を上げた名前の見開かれた目を見て、凛はぐっと眦に力を込め、そして言った。
 
「結婚、して……ほしい」

 名前が鋭く息を呑む。同時に微かにその身体が震えるのを、凛は抱きしめた腕で感じた。それでも決して、目は逸らさない。じわりと名前の瞳が潤むのを、凛は瞬きすらできずに見つめていた。
「凛、ちゃん。凛ちゃん――」
 少しだけ震える声で、今度は名前が凛を呼ぶ。同時に、名前の腕が凛の背中に回された。恋人の逞しい身体を抱きしめることで、自身を叱咤するかのように。
「私、私も、ずっと凛ちゃんのこと見てたい。凛ちゃんにも、ずっと私のこと見てて欲しい。――一緒に、いてほしい。……凛ちゃんと、結婚、したい。……です」
 今にも泣きそうになりながら、名前は一気に言った。
 途端に、凛の体からふっと力が抜けた。自分でも気付かないうちに、相当に強張っていたらしい。大きく息を吐きながら、改めて名前を――今まさに「婚約者」となった恋人を抱きしめた。

「明日、指輪買いに行くぞ」
 しばらく抱き合ったまま余韻に浸っていると、凛が徐に口を開いた。
「――は?え、まって」
「何だよ」
「あの、凛ちゃん。あの――さ、普通その、プロポーズって……指輪持ってするもんじゃないの……?」
「ごちゃごちゃ言うんじゃねえよ。お前の指輪のサイズなんて知るかよ」
「あ、……それは、そうだけど……」
「……好きなの買ってやるからいいだろ」
 凛は照れ隠しにどすの利いた声を出しているが、それを聞いた名前はきゅっと口を閉じて、それから凛の胸板に顔をうずめるように抱き着いた。もともと抱きしめあっているから、抱き着く力を強くしただけではあったが。
「わかった。ありがと。……大好きだよ」

 目覚ましもかけずに眠った朝。薄く目を開けるとすぐそばに凛の頭があった。時計を見ようと布団から腕を伸ばす――11時。
「……んだよ、ごそごそ動いてんじゃねえよ」
 心底不機嫌そうな声がする。名前が動いたことで凛も起こされてしまったらしい。
「凛ちゃん11時だよ。10時には家出ようって言ってたのに」
「あ?……じゃ別にいいだろ明日で」
「……せっかくの、婚約……指輪、なのに?」
「目星ならつけてるし、明日も休みなんだからいいだろ――寝るぞ」
 眠そうにそれだけ言うと、起きようとした名前も巻き込んで、凛はもう一度布団をかぶりなおしてしまう。
 名前はため息をついたが、実際名前もまだ眠いし、体も動きたくないと言っている。
 大人しく予定は明日に先延ばしすることにした。