Die Blaue Nacht

背中にキス

キスの日に関するネタではなくてキスの日というのに触発されて書いただけの話。原作後、未来時空です。「キス」という感覚がない頃の回想も含むし「キス」とは?みたいなことにもなってます。

 最初はおそらく、天使と言われたからだった。名前がそうだというだけで、自分はそんなものじゃない。人間にすらなれないクソ物なのに、そんなものであるはずがない――そう思って、そう呼んだ女に腹が立って、投げるように女をソファに放り出した。これ以上その耳障りな音を聞きたくなくて、そしてこちらを見られたくなくて、起きあがろうとした名前を後ろから押さえつけたのが、最初だった。名前が着ていたワンピースだかなんだかの肩紐がずれて背中が見えていて、それがなぜか、今でも鮮明に思い出せてしまう。名前の薄く華奢な背中に浮く肩甲骨の窪みに何か、天使だとかあの頃名前に課していた役割だとか、いろいろなものが過った。過って、やはり腹が立ってそこに触れて、噛みついた。
 天使?そんなものじゃない。そんなものいない。少なくとも自分の周りにはいない。だが名前は俺の全てを受け入れる。出会ってから今までずっとそうだったし、あの頃はそれが聖女ってものだろう、と思っていた。こんなクソ物すらも受け入れる、俺の、俺だけの”聖女”なのだと思っていた。
 ――聖女に翼なんて、あるはずがないのに。

 次にはその聖女を”ここ”まで引き摺り下ろしたくなった。全てを受け入れるその役目はそのままに、どこかお綺麗な世界に生きる名前に、ただの人間へ、そして俺のいる泥沼みたいなどん底まで落ちてこいと思った。思うだけじゃなく実際にそうした。全部受け入れるのを良いことに俺自身で汚して同質のものにしようとした。あいつはそれでも天使だのなんだの言っていたが、本当にどうかしてると思っていた。……まあ、それに関しては今でも思っている。
 あの頃は名前のガラス玉みたいな目で見られるのが妙に居心地悪くて、やはり背後から押さえつけていた。薄い肩も細い腕も、どこを押さえれば動きを封じられるのかも、全部わかっていた。傷つけずに傷つけるその塩梅を一番わかっていて、やはり名前は俺だけのものだった。だから、聖女に翼なんてないことなんてわかりきっていたのに、羽が生えていた痕みたいな背中が遠くて遠くて、自分の手が届くところに閉じ込めたかった。閉じ込めたくて、執拗にそこに新しく跡をつけた。消えていてもいなくても、飽きもせずに。背中だから、名前はこっちを見られないのも都合が良かった。

 全部捨ててゼロになって、全部壊れて……そんな時に再会した名前は、背中の……あの頃ひたすらに所有の印を残していたところに小さな薔薇のタトゥーを入れていた。「同じものが欲しかった」「消えない跡が欲しかった」そんなことを言いながら、少し見ない間に名前は”人間”になっていた。空っぽの人形が、他でもない俺が与えたもので満たされて人間になったというのは奇妙で、息苦しいほどの熱を伴う感覚だった。そしてその”人形だったもの”が自らの意思で俺のものである証を決して消えない方法で刻みつけたのだと知った時、その熱が一気に膨らんだのを覚えている。自分だけが熱に飲み込まれるのは癪だったから、名前も巻き添えにした。
 まだ馴染みきっておらず赤く熱を持ったその”傷痕”に触れたのは唇だった。両手は名前をきつくきつく絡め取って離さないようにするのに必死だった。不可抗力、みたいなものだ。……背中に跡はつけなかった。消えない痕があったから、もう必要なかったからだ。

* * *

 ミヒャエル・カイザーが、夜中にふと目を覚ますのは昔からだった。眠っていようと何をしていようと神経を研ぎ澄ませていた幼い頃の名残なのかなんなのか、成長してあの頃が全て過去になってからも、だからどうということもないのにふと目が覚める。カイザーにしてみればもはやそれにいちいち何かを思うわけでもなく、眠いものは眠いのですぐにまた眠りに落ちている。
 
 今日もまた目が覚めて寝直そうとしたカイザーの腕には、今日も名前が収まっている。今日も、名前を背後から抱きかかえている。結局これが一番収まりが良かった。昔から何かを抱えるようにして眠っていたからなのか、名前という存在が……というか、カイザーと名前が築いてしまったものの積み重ねがそうさせるのかはもうよくわからない。が、ともかくも名前はカイザーの腕の中で眠ることを受け入れているし、カイザーも自らそれを選んでいる。出会って間もない頃も、歪な執着でがんじがらめになっていた時も、いつでも彼は、名前を背後から捕まえて、あるいは抱きしめている。……今となっては、背後からに限ったことではないのだが。
 再び眠気がやってくるのを待ちながら、退屈を紛らわせようと名前のうなじにキスをする。噛みついたり、痕を残したりではなくそれはまさしくキスであり、そしていつの間にか習慣じみてしまった行為だった。名前の着ているゆるいナイトウェアを少し引けば、自分よりも白い背中が覗いて、もちろん肩甲骨の窪みのところにある薔薇だって見える。うなじから肩、それから背中を唇でなぞるのも、あの頃から少しずつ変化しながら続いている――口付けているとか、キスしているという意識も、いつのまにかそこにあった。
 名前が起きないようゆっくりとキスを続けながら、それまでの”顛末”を考えるでもなくさらりと思い返して、カイザーはごく小さくため息をついた。それに込められた意味は彼自身にしかわからず、彼にもわからないかもしれない。
 しかし何だったにせよ、夢の合間の取り留めのない泡のような思考の欠片にすぎないそれは、ため息と一緒に溶け出て消えていった。