捨ててくれたっていいのに
壊れるほど愛しても1/3しか伝わらない頃のカイザー。
※なお「愛」とは
「そんなに苦しい顔するなら、捨ててくれたっていいのに」
それを聞いたカイザーがぎょっとして名前を凝視した。
名前は特になんの感慨もなくその視線を受け止めて、要らないのなら、苦痛になるのなら、当然手放すべきで……何を驚く必要があるのだろう、などと思っていた。カイザーは感情的になることはあれど、選択が感情に流されることなどほとんどない男なのだから。
「お前、それ……本気で言ってんのか?」
自身としても名前に執着している自覚があるカイザーが、歪めた唇の隙間から問うてくる。互いが互いに執着していることなんて分かりきっているし、なんなら面と向かって確かめ合った。いまだに名状し難い感情と関係ではあったが、側にいたいとか、手放したくないとか、そういう思いは共通している。それなのに。
いつもそうだった。カイザーは名前の全てが欲しいと思っているし、名前も自身の口でカイザーの側にいたいと伝えてくる。同じ熱量でそう思っているのに、一方では「要らないなら手放せばいい」などと言ってくるのだから、カイザーにしてみれば「何なんだ」と言いたくもなる。とはいえ全ては名前が誰かにとっての人形で、名前自身にもその自覚があったせいだ。誰かの役に立つために必要とされて、役に立たないとなれば捨てられる。利用価値がなければ存在価値もない。そう自然に思い込んでいる。たとえ
名前自身が何をどう望もうと、相手が必要ないと言うならそういうものだからと抵抗もなしに離れていく。……自分自身がこうしたいと望むことと、相手にこうして欲しいと望むことは、名前にとっては全くの別物であるようだった。
捨てられたいなんて、思ってもいない癖に。
というか、今までの関係からすれば今更カイザーが自分を手放すだなんて思いもしないことくらい、名前にだってわかっているだろうに。
――そんなことを考えている顔が苦しげだなんて、名前に指摘されるまで気付かなかったのも確かだった。苦しいわけではないのにどうしても満たされない、もどかしい思いを、カイザーはここ最近もやもやと抱え続けている。
知らず知らずに握っていた手には、確かに名前が握り返してきている感覚がある。しかしカイザーには、それが彼女の自発的な意思によるものなのか、それともただ握られたから握り返している、というだけなのか、その区別がつかないでいた。
それに無性にむしゃくしゃして、絡まっていた指を解く。
「今日は帰る」
言いながら立ち上がれば、名前は解かれた自分の手をただじっと見ていて――案の定、その表情は見えない。
「ごめん、なさい……」
「は?」
「どう振る舞うべきかは、それなりにわかるはずなの。なのに……私、今どうすべきかわからなくて、うまく、できなくて。ごめんなさい……」
「……別に、お前に対して腹を立ててるわけじゃない――ただまあ、今日このままここにいたら、またお前の首でも締めたくなりそうだから帰る」
冗談めかして物騒な言葉を投げつけながら、そうでもしないと本当に手を出しそうだった。
自宅に戻ったところで、じっとりとした苛立たしさは少しも減りはしなかった。なぜこんなにも腹が立つのかがわからず、コートに入れていたスマホや財布を乱雑にベッドに放り投げる。
だからといって、名前に対して怒りがあるわけではないのも確かだ。強いて言うなら、名前の、どこまでも無機質に役割を果たそうとする姿勢に、そしてカイザーに向けた言葉に対してではなく、”役割を正しくこなせなかった”ことを謝罪されたのがやたら気に食わなかった。
それが名前という人間の性質だということはわかりきっているはずなのに。ただ役割を果たすことを求められていた人形だったのだから、当然の反応なのに。
カイザーはもやもやとした思考を振り払おうと自分の感情を分析する。最初に感じたのは、腹立たしさ……怒り、ではある。しかし一人になって考えてみれば、おそらくこれは怒りではない。頭に血が昇る感覚、あれとは全く違っていた。自分のよく知る中で一番怒りに近い感情だったから、脳がそう認識したのだ。
名前に従順であることを強いてきた全てが……あるいは彼女の両親だったり、彼女が置かれていた立場だったり、そういったものが確かに腹立たしくて、しかし次の瞬間には他でもない自分だって、名前に出会ってからそう強いてきたことを思い出してしまった。それがなんとも歯痒くて、やるせない。
やるせない――自分がそんな感情に辿り着いたことが意外だった。やるせない、だなんて、そんなの、……そんなの。
これ以上考えていると碌な結論が出ない。頭のどこかでそう感じて、カイザーは強引に思考を中断した。
熱いシャワーでも浴びて、全てをリセットしたい気分だった。