深淵
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お互いへの執着が強い。直接的な表現はありませんが総じて不健全ですし前提として体の関係があります。
ぬるいですが首絞め描写があります。
“Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein.”
——Friedrich Wilhelm Nietzsche
傷つけたい、傷つけて支配したい、というのはあるかもしれないが、別に殴ったり蹴ったりするわけではない。特に名前はカイザーの前に立ちはだかっていたとか、引き摺り下ろすべき相手だったとか、そういう存在ではないし、そもそも自分よりも弱い相手だから、(支配したいというのはともかく)殊更に酷く痛めつけたい、などという意思があったわけではない。
――ただ、何か歪な歯車のようなものが、カチリとはまってしまっただけ。
「そのクソ苛つく表情を俺に向けるな」
出会い頭に、カイザーは忌々しげに吐き捨てた。ホテルで会うことが多いが、今日は(勝手に)名前の部屋をカイザーが訪れたのだ。突然の来訪に困った顔をするでもなく、にこやかに迎え入れただけだというのに。
カイザーは名前の笑顔が嫌いだった。あの空っぽで無気力な女が「笑う」「楽しそうにする」など、作り物でしかないからだ。かといって、心から笑ってくれれば、などと殊勝なことは思ったことがない、というかそんな感情は浮かんだことがない。ただただ、それはお上手な作り笑いが薄ら寒くて嫌いだったのだ。どこも見てない癖に、顔だけ笑っていても気持ち悪いだけだ。
自分だって必要に応じて作り笑いだってするというのに、カイザーは自分のことは棚に上げて名前に「笑顔を向けるな」などと言う。――おそらく、なんの感情も持ち合わせていない女だと知っているからこそ、名前の笑顔がさらに苛立ちを感じさせてしまうのだ。
名前は単に、「人を迎える時にはにこやかにすべき」というのを守っているだけだ。律儀も何も、従うべき規範があれば名前はそうする。……が、カイザーに言われると途端に全ての表情が抜け落ちた。この男の前では取り繕わなくても良いのだ、と学び始めたからだ。
やはりどこも見ていないような空虚な表情。実際どこも見ていないだろうし、この後どうしようなどと考えてもいない。全てが受け身だった。その空虚さもまた、カイザーを苛つかせる理由の一つだったが、奇妙なことに彼は名前のその空虚さを求めてもいた。空虚故に全てを受け入れる、名前を。
間違っても、女を抱きたいわけではない。そう言い訳しながらも名前を押し倒してしまうのだが、それだってただの結果に過ぎない。空っぽな名前に埋められない跡傷を残したい。受け入れるというのなら、自分という存在を知らしめて刻みつけてやりたい。自分のものにしたい。そういう支配欲と独占欲が混じり合っていたし、さらには、自分とは真逆の、真綿に包まれて幸せに何不自由なく育ってきたこの女が厭わしくて、自分のところまで堕ちてこいとも思っていた。だというのに、この虚で無垢な……あるいは聖女とも形容すべき女を傷つけて汚していく自分が同じように厭わしかった。”だから”一つになりたかった。同じところまで引きずり落としてしまえば、自分と同じ経験を味わせて同質のものにしてしまえば良いのだと”気付いた”。あとは……単純に気持ちが良かったからだ。終われば一転、こんな行為をしている自分への嫌悪感がやってくるのだが。
支離滅裂だなという自覚は、頭の片隅に残る嫌に醒めた部分に小さく引っかかっていたが、ま、クソ物なら仕方がない、とカイザーは自嘲とも取れる薄い笑いを浮かべて納得していた。
契機はいつだったか、そんなことは互いに覚えていない。しかしいつかのあの時、彼自身に組み敷かれた名前が幼い頃の自分に重なったのは確かだった。肉欲とか、性欲とかいうアレは、カイザーが言うにはタチが悪くて思考能力を奪う。ある種トんでいた、と言えなくもない瞬間は確かにあって、そんな状況でクソみたいな幼少期を思い出してしまって止まれなくて――気が付けば自分が組み敷いた女の首に手をかけていた。
終わってから、あのクソ親父と同じことをした自分が最悪で、気持ち悪くて吐きそうになった。本当に、最悪の気分だった。心とは裏腹に体は満足しているあたりも、最悪だった。
最悪だと思ったのに、噛み合った歯車は離れられない。この関係が、この行為がやめられなくなってしまった。事後の最悪な気分を除けば、支配欲も独占欲も性欲も含めていろいろなものを満たしてくれるからだ。今日だって、そう。
呼吸を奪い、一つに混ざって同じものになろうとして、深く深く口付ける。しばらくすると名前が苦しそうな声を上げて、それを感じたカイザーはするりと名前の首元に触れた。脈が打つのを確かめる。
それから、首を覆うように手をかけて、少しだけ力を入れる。手のひらに
名前の脈拍を感じてぞわりと背が粟立った。
――この女を、生かしている。
――この俺クソ物が、この何もない女を、生かしている。
全て自分に委ねてくる名前を自分の手で壊してやりたいとは思うが、物理的に傷つけたいわけではないし、ましてや手にかけたい、などとは思っていない。彼はむしろ、自分の手で名前を生かしていることに興奮した。自分に全てが委ねられている。自分の手で生かしたい。そんな相反する感情の掃き溜めが、この行為だった。
「はやく、――」
(俺のものになれよ)
(俺を求めてみろよ)
唇を離しながら囁いた。肝心な部分はほとんど音にはなっていなかったが、名前には届いているだろう。
首にかけた手には、ほんの少ししか力を入れてはいない。今日はまだ理性的だからだ。それでも、というか主に深い口付けのせいで、解放された名前は荒い呼吸を繰り返している。ここまでが一連の流れだった。名前がくたりと脱力して、大きく息をしている彼の手で生かされているというのを確認するまでが。
「俺の、聖女」
それを見ながら小さく呟いて、カイザーは悦楽に浸る。
苦しかったからだろう、涙で潤んだ名前の瞳が、窓から入る街の灯りを映してキラキラと光っている。常日頃、何の感情も返してこないあの目とは違って生き生きとして見えて、綺麗だった。
――当然だ、聖女なのだから。
そんなカイザーを、名前もまたぼんやりと見ていた。酸欠と涙でぼやけた瞳に映る、歪んだ笑顔。生きている実感をくれる男の、その悦に浸ったような歪んだ笑顔が、彼もまた生きているのだとまざまざと見せつけてくるからだ。
それを見るのは、嫌いではない。それを自覚するまでには至っていないにしても、自分から求めることはなく、ただ受け入れているだけだったとしても、名前もまたこの歪んだ歯車の一部であることには変わりなかった。