Die Blaue Nacht

春雷

アグロヴァルお兄様で土砂降りキス。
夢主がお兄様の信頼と愛情を勝ち得たお砂糖期の話。
ハリエットは侍女です。

 雪解けの季節。春の訪れを感じるとともに、冬の間活動していなかった魔物が動き出す季節でもある。強力な魔物の群れが現れたからと、アグロヴァル自ら討伐に赴いてもう1週間だった。数日で戻ると聞いていたのに、使者も便りもない。

 名前は窓辺に腰かけて、降りしきる雨を見ていた。正確に言えば、見ていたのは雨を透かした先にある城門だった。彼女はこのところ、少しでも時間があればあの城門が開いて夫が帰って来るのを待ち続けている。昼過ぎに降り始めた雨は雷を伴って激しさを増し、いつの間にか夜になっていた。
名前様、ご夕食の準備ができました」
名前様、ご入浴されませんか?その間にお戻りになられたら、すぐにお知らせしますから」
 何度かハリエットが声をかけるたびに名前は生返事をして、味のしない食事も、体が温まった気のしない入浴も、機械的に体を動かしてこなしていった。その間もことあるごとに窓の外を気にしているか、物憂げに溜息をついているかだ。髪を乾かされ、艶が出るまで梳られてもされるがままである。
 ――と。ひときわ明るい稲妻と雷鳴に名前とハリエットが揃って窓を見た時。消えることのない松明の光に照らされた城門が、開いた。次いで激しい雨音の中、馬の蹄が雨を蹴散らし、鎧の金属同士が擦れる音が聞こえてくるのに気付くと、名前はハリエットが何か言うのも聞かずに駆けだした。

 想定したよりも魔物の数が多く強力だったため、当初の予定よりも討伐に日数を要した。死者こそ出さなかったもののけが人は複数おり、それもあって帰路は往路よりさらに時間がかかることとなってしまった。使者も満足に送ることができなかったので、おそらく名前をはじめ城に残っている者には心配をかけただろうとはアグロヴァルも思っている。
 稲妻に照らされ、城が青白く浮かび上がる。降り続く冷たい雨に打たれ、魔物討伐の高揚感などとうに消えている。馬の背に揺られ続けた体は冷え切り強ばっていたが、見慣れた”我が家”の姿に少し、緊張がほぐれた心地がする。誰にも気づかれない程度に、小さく息をついた。
 城門が開く。騎馬の一団を引き連れて、アグロヴァルはその先頭に立って入場した。城の敷地に入るや否や、もうあとは勝手知ったるとばかりに、自身の役割を理解している騎士たちは各々の持ち場へと散ってゆく。門をくぐってから城までに、アグロヴァルの周りは少数の護衛のみになっていた。
「アグロヴァル様!」
 馬を降り、従者に手綱を渡したところで、土砂降りの雨音を割くように声が響いた。アグロヴァルが帰城したのを見るやいなや、名前が城から飛び出して来たのだった。
 降りしきる雨にナイトドレスが濡れるのも構わず、名前が駆け寄ってくる。走ってきた勢いのまま、アグロヴァルに抱きついた。当然の如くそれを受け止めようとして、アグロヴァルは背に回しかけた腕を直前で急停止させた。何と言っても彼は今、びしょ濡れで冷たく固い鎧を着込んでいるのだ。どう見てもただのナイトドレスしか着ていない名前を抱き寄せるのは躊躇われた。
「アグロヴァル様、アグロヴァル様……! ああ、よかった……お聞きしていたご予定よりも遅くていらっしゃったから、わたくし……!」
 そんな夫の躊躇いに気付きもせず、鎧ごとアグロヴァルを抱きしめた名前は安堵のため息をついて、今度は華奢な両手で夫の頬を包み込んだ。髪をつたい頬を流れる雨粒を拭って、「こんなに冷えてしまわれて」「風邪をひいてしまうわ」「ご無事でよかった」など、アグロヴァルが口を挟む間もなく言い募る名前からは、不安と、そして大きな安堵が見て取れた。
名前
 そんな格好で。早く中へ入らねば。すぐに冷えてしまう……いろいろと言いたいことは浮かんだが、名前が言葉と動作とで忙しなくアグロヴァルの無事を確認するものだから、一言名前を呟いたまま何も言えなくなってしまう。
「……名前
 アグロヴァルはもう一度その名を呼ぶと腰にそっと腕を回し、しかしもう黙れと言うような強引さで名前に口付けた。唐突ではあったが、言葉よりも余程雄弁なものもあるのだ。言葉を途切れさせざるを得なくなった名前はしかし、それで一気に大人しくなると安心しきったように口付けを受け入れた。
 いつだったか、名前が小説に出てきた雨の中での口付けがロマンチックだと言っていた。しかし実際はどうだ。顔に降りかかる雨は邪魔で熱を削ぐし、濡れた衣服は気持ち悪いだけだ。彼が鎧を身に着けていなければ、もう少し違った感想を抱いたのかもしれないが、現実はというと今この土砂降りの雨の中、鎧で満足に妻を抱くこともできないまま、その口を塞ぐためだけに口付けをしている。確かに1週間ぶりに触れる名前の温もりは、意識しているわけではなかったにせよ彼が求めてやまないものではあったが。
「今、帰った」
 暫くして唇が離れると、やっと一番に言いたかった言葉をかけ、額を合わせてほっと息を吐く。寒さで強張っていた身体から力を抜いて、ほんの短い間目を閉じる。暖かな吐息を名前と分け合った。

 城の玄関から、複数の足音が聞こえてくる。筆頭は傘と外套を持ったハリエットだ。彼女が名前を呼ぶ声にアグロヴァルは目線で応え、名前から身体を離して傘を受け取った。同時に、名前の肩には分厚い外套が掛けられる。
「早く中へ入らねば、風邪をひくのは其方の方だ」
 そう囁くと、アグロヴァルは右手に傘を持ち、左手で名前をエスコートして城へと入っていく。側に控えるハリエットにもう一度名前を風呂に入れて身体を温めるよう指示を出し、自身も鎧を外して身体を休めるべく自室へ向かった。
 
 防寒具でも何でもないナイトドレスは寒かった。アグロヴァルに抱き着いて、キスをされたときには寒さなど何も感じなかったが、部屋に戻るころには濡れたドレスが体に張り付き体温を奪い、文字通り名前は震えていた。アグロヴァルの指示通り、ハリエットは再度入浴の準備をして、先ほどよりもゆっくりと名前に湯浴みをさせた。温まった肌と綺麗に乾かされた髪に、もう一度丁寧に香油を馴染ませていく。それが終われば、ラベンダーとカモミールを使ったハーブティーを淹れる。ティーカップはもちろん二つ。そろそろ、同じように入浴を済ませ、あとは寝るだけとなったアグロヴァルが名前の部屋を訪うだろうからだ。「お茶、置いておきますね」と言い置いて、ハリエットも下がっていった。
 熱いハーブティーを啜っていると、部屋の扉をノックする音が聞こえ、名前が答える前に扉を開けてアグロヴァルが入ってくる。立ち上がり迎えようとする名前を手で制すると、漂うハーブの香りに少し目を細めた。ティーカップにお茶を注ぐ名前の横に腰かけると、腕を伸ばして名前の肩を抱き寄せた。それでは足りず、自身もその身を寄せるように黒く艶やかな髪に控えめなキスを落とす。彼の纏う濃紺のガウンが上品な衣擦れの音を立てた。
 名前を抱きしめると、彼女が肌に塗りこんだ香油が甘く香る。彼女が好んで使っている柔らかな花の香りだった。戦場の匂いは嫌いではない。舞う土煙も、草いきれも、凍り付く雪原も、どれも嫌いではない。抱き寄せられるがままの名前とその甘やかな香りに、これを求めるようになったのは――これを心地よいと、安堵すると感じるようになったのはいつからだろうと考えた。
 そうやって、名前を抱き寄せてしばし物思いに耽っていれば、腕の中の名前がそっと彼の頬に触れた。
「そろそろ寝ましょう? お疲れなのですし」
 言いながら目元にかかった髪を払うと、身体を預けるように首を傾げている。その瞼に軽い口付けを落として、アグロヴァルは立ち上がる。名前の手を引いて寝台へと誘った。
 天蓋のカーテンを全て閉めてしまえば、激しく降り続く雨音が遠くなった。柔らかく心地よい闇に包まれて、アグロヴァルは目を閉じた。