愛という夢をみる
めちゃくちゃモヤモヤしている話。
カイザーと夢主で「"愛"が崇高すぎてわからない、と思い込んでる話」。
ただ、もうこれは多分というか確実に、気づいていない、気づけないだけで「愛」。
Angstというドイツ語ですが、辞書の意味だと「不安、恐れ」と「心配、気遣い」の意味があるんですよね。確かに同じ単語として表現されるのもわかる感情ではあるんですけど、自分が不安になっているのか、相手を心配しているのか、という点からだと結構大きな違いだと思ってます。
何かを見たのか、何かを言われたのか。原因はわからないが、何かしら彼の癪に触る――逆鱗に触れる――ようなことがあったに違いない。それは名前にはあずかり知らないことだし、殊更に知ろうとも思わない。重なる部分が分かり合えていれば、それでいいのだ。
――だというのに、その何らかの原因に端を発したカイザーの言動は、重なり合っている部分であるはずなのに分かり合えない。わからない。
「なあ、言えよ。『愛してる』って。ほら。言えよ」
陰気な雨が降る暗い午後。部屋に入るなり、名前はソファに追い詰められて押し倒されていた。髪の散らばり様がその激しさを物語っている。そしてカイザーは、名前を押し倒しただけではなくその上に覆い被さって、無理矢理に顎を掴んで目を合わさせている。
カイザーが"多少"強引なのは今に始まったことではないし、名前はその強引さだって喜んで受け入れる。それが自分を満たして、彼女自身の人格を形作ってきたのだから当然だ。しかし、ここ最近はほとんどなかった。ましてこんな、……「愛してると言え」だなんて。
カイザーの生い立ちについて、名前はなんとなくしか知らない。彼が語ろうとしないからだが、一緒に過ごしていれば察したり、わかったりしてくることだって多い。彼が一番求めているのが"それ"だということにも、(名前自身も望んでいることだったからこそ、というのはあるかもしれないが)気付いている。
……しかし、最も求めているからこそ、彼は決して"それ"を口にしない。名前に対しても言葉にして求めることはない。それで互いにわかり合ってきたはずだった――今この瞬間までは。
「…………言え、ない」
「あ?」
小さな声で名前が拒否を伝えた瞬間、カイザーの顔が酷く歪む。激情に晒されて苛烈な光を湛えた青い瞳の中で、ぎゅうと瞳孔が細くなる。そこに浮かぶのは、今まで思い通りにしてきた女が思い通りにならない怒りと、それでいて今更何かを彼女に強いている自分への嫌悪と、落胆と、そしてほのかな諦観で――それが溶けて混じり合っていた。しかしそれを向けられながら、名前も……カイザーに求められれば何だってする名前ですら、"それ"だけは言えなかった。なぜって、名前にもわからないからだ。そしてその言葉をわからないまま口にすることは、たとえ他でもないカイザーに「言え」と
「言えない、の……あなたは私の特別な人。私の唯一の人。それは確かだわ……だけどこれが、『愛してる』ってことなのか、私にはわからないの。だから……言えない……ねえ、だから、確信ができた時に言わせてほしい。私は、あなたには、誠実でいたい」
あまり口数の多くない名前が言い募るのを聞いて、カイザーはギリ、と音がするほど歯を食いしばり、しかし少しだけ名前を抑える力は弱くなった。名前の言葉が嘘偽りなどではないとわかるくらいには、カイザーも名前を理解し、己の内側に入れている自覚はあるのだ。その自覚があるのを思い出せば、少しずつ理性も戻ってくる。
自分の内に渦巻く激情をどうにか飼い慣らそうとするように、カイザーは一度ゆっくりと瞬きをした。もう一度開かれたその瞳には、熾火のような淀みが揺らいでいる。それに言いようのない不安を感じて名前が手を伸ばすよりも早く、カイザーはするりと身を引いて立ち上がって――説明も釈明も何もなく視線を逸らされてしまった。顔にかかる髪を掻き上げたせいで、その表情が見えなくなる。なぜあんなことを言ったのか。彼自身はどうなのか。何も、教えてはくれないし、読み取らせてもくれないのだ。
「ねえ、あなたは、――」
愛して、いるの――?
名前の疑問は声にはならなかった。かけられた声を振り払うように、カイザーがリビングのドアを閉めて出て行ったからだ。声にならなかった部分も、「誰を」なのかも、"聞こえている"はずなのに。
確かに名前は特別だ。だがそれが「愛」だなんて、どうやって証明できる? この俺が? どうやって。そんなの、どうやったらわかるっていうんだ――愛されたことのない……愛したことのない彼に、それがわかるはずもない。少なくともカイザー自身はそう思っている。
とりあえず"避難"した寝室で一人、考えに沈む。とはいえ心は彼にしては珍しいほどに乱れていて、思索だって散り散りでまとまりようもない。それでも、名前を傷つけたかったわけではないのは確かだし、まして……
――回らない頭でそこまで考えて、また最悪な気分を上塗りした。
二人がなんとなく一緒に暮らし始めてもう長い。同じベッドで寝ているし、キスだってその先だってする。それが一般的には愛情を介してのことだということも、二人とも知っている。しかしそういう二人の関係の発端は、そういう行為の発端は、自身の生存と存在の証明・明確化だった。少しずつ形も、それに乗る感情も変わってきていることは自覚できるものの、あんな酷い執着と自己嫌悪と存在証明が混ざり合ったドロドロとした――ドロドロとして
カイザーの思考が唐突に途切れた。
小さな、しかししっかりと響くノックの音が、思考を中断させた。名前が、寝室の扉をノックしている。
珍しいことだった。一人でいたい時間を名前が"邪魔する"ことはほぼない。カイザーもそうだったが、そういう不文律のようなものがあった。
――今日は本当に、イレギュラーばかりだ――
カイザーはため息をついて立ち上がりドアを開けた。それだって、イレギュラーの一つだ。放っておくことだってできるし、そうすればきっと名前も諦めるのだから。
ドアを開けた瞬間、しかし後悔が押し寄せてきて咄嗟に踵を返す。それを引き止めるように、名前がカイザーの背中に抱きついてきた。……どんな顔をしているのか、見られたくないのだ、と思った。だって、彼自身がそうなのだから。
「ごめんなさい」
「は、何に対して――」
「……それでも、離れられなくて」
くぐもった声には"
離れて欲しいわけじゃないし、離したいわけでもない。この中途半端な感情で離れられないのはカイザーも同じ。名前の言葉はつまり彼の言葉でもある。だから、それに返す言葉を知らない男は――背中から腕を回して抱きつく名前のその手に、自分の指を絡めることしかできないでいる。