Nikki, SS

羅針盤の示す先

父さんの残した古びた鍵を、古くて重そうなドアに差し込む。捻ると少し抵抗はあったが、すぐにカチリと音を立てて解錠される。
予想通り重い扉を押し開けると、きっと扉と連動していたんだろう、天窓の覆いが外れて一筋の月光が暗く埃っぽい部屋に差し込んだ。
その光の先で、かすかに時計の針が動くような音がして、それはすっくと立ち上がる。鋭利に尖った針で器用にバランスを取るガラス球だ。
ぎょっとしてそれを眺めていると、ガラス球の”奥”から、信じられないことに人(本当に?)が現れた。
「ああ——やっとか。待ったぞ、イーライ。次の行き先は決まっ、……ん?君、イーライではないな。……ふむ。一つ問うが、今は何年だ?」
問いを向けられた、らしい、というところまでは理解できたが、そもそもこのガラス球が理解できない。ガラスの中に人がいる——?
「おい、呆けているんじゃない。何だ?私が気になるのか?ふ、私は羅針盤だ。私は私の知識と計算によって道を示す。普通の羅針盤がこんな風ではないのは知っているが、目の前の現実を受け入れるんだな。私は今、君の前に存在している。」
濃紺のドレスに身を包んだ麗人が、僕に語りかけてくる。羅針盤、と聞いてぴんときた。日記にあった特別な羅針盤とは、このことじゃないのか。
「それでだ。もう一度問うぞ。今は何年だ?私は羅針盤、正確な情報がなければ何もできない。私に知識を与えてくれ。」
きっとそうだ。父さんの日記には「美人な上にその辺の男よりよほど勇敢」だとか「知識欲がすごい」だとか書かれていて、羅針盤なのにどういうことなのかと思っていたのだが、その意味がようやくわかった。
「今年は新暦783年。イーライは僕の父さんだよ。」
「ほう、783年。19年ぶりの世界か。それに、少年、イーライの子とは!あ奴も父になったのか。それは良い!君の名はなんというんだ?」
おもしろそうに目を細め、羅針盤はさらに問う。
「僕はユーリ。ええと…あなたは確か、リュミエールと言うんだっけ?」
「おお、よく知っていたな!そうとも、我が名はリュミエール。リュミエール・ド・シリュース。どんなに暗い道をも照らし出す星の光だ。」
名乗る羅針盤——リュミエールは誇らしげで、その瞳がきらきらと輝いたのがガラス越しにも見て取れた。

「ユーリ、君はなぜ今、私を目覚めさせたんだ?」
自己紹介と現状確認が済んだ後、本題だと言わんばかりにリュミエールは問うてくる。……特にあなたを目覚めさせようと思ってたわけでは、ないんどけど。
「ああ、いや……その、旅に、出たくて。父さんが、その時が来たらここを開けるように、って鍵をくれたんだ。」
「開けてみたら、私が目覚めた、と、そういうわけか。」
リュミエールはそれで全て察したようだ。——僕が口に出さなかった部分も含めて。確かに、状況の把握や判断はものすごく速くて的確だ。
「偶然にしろ、私を目覚めさせたのは正解だぞ、ユーリ。船があろうと操舵手がいようと、羅針盤がなければ旅には出られないのだから。船や人手は金があれば手に入るが、私はそうはいかない。」
「ちょ、っと待って、あなたは僕の旅について来てくれるの?」
「? 当たり前だろう、私は羅針盤だぞ?それとも何か、君は羅針盤もなしに旅立とうとしていたのか?」
「いえ、その……一緒に来てくれるのなら、とても嬉しい、です。」
それを聞くと得意げに鼻を鳴らし、リュミエールは旅装や持ち物についてのアドバイスをくれた。

「そういえばリュミエール、あなたは父さんのこと、聞かないんだね。」
「聞かずとも想像はつくさ。19年間も私を放っておいたのだし、いざその静寂を破ったのは奴の息子だった。とくればなおさら。」
僕の荷造りを見守っていたリュミエールは不敵な笑みを消し、遠くを見るように目を細めて続ける。
「イーライは好奇心の塊だった。いろんなものに興味が尽きず、だからひとところにとどまれるような男ではなかったよ。そうか、あのイーライが父になったのか……イーライはよほど君と君の母君を愛していたのだな。でなければ私をこんなに長い間放って身を固めるはずがない。そうかそうか、良いことだ……」
親しい友人を懐かしむような眼差しだった。
「父さんは、僕にたくさん若い頃の冒険の話をしてくれて…僕はそんな父さんに憧れたんだ。いつか僕も、父さんみたいにそらを駆けるんだって。
そう言ったら父さん、僕に日記とここの鍵をくれたんだよ。

使い古されたトランクに、アミュレット、最低限の着替え、それから何かの足しになるだろう、と引っ張り出した銃を放り込む。もちろん、父さんの日記も入れた。
航空図をまるめ、父さんが旅の途中で手に入れ、気に入ってずっと使っていたという旅行マントを羽織り——ささやかな荷造りは終了した。
もうすぐ夜明け、旅立ちの刻だ。

家の扉に鍵をかけ、その鍵を内ポケットの一番下にしまい込む。そして波止場までの道をじっくりと歩く。次に帰ってくるのはいつになるのか、僕にもわからない。だから、しっかり覚えておかないと。
リュミエールは、その全てを何も言わずに見守ってくれた。

波止場は静かで、僕が乗り込む予定の貨物船も、黒いけれども穏やかな波に浮かんでいる。
ゆくゆくは自分の船も欲しい。父さんの船を探すのも良いかもしれない。
「そういえば、父さんの日記には、羅針盤はとても大きくて、あなたと話すのに階段を使わなきゃいけなかったって」
ずっと黙っていたリュミエールに話しかける。
「ふふ、大きさの概念など大した問題ではないさ。イーライと旅していた時は、私は船の支柱でもあったからな。当然、ある程度の大きさが必要だった。しかし今は違う。君との旅はもっとコンパクトだ。合わせるとも。」

暗い海を背に、リュミエールは目を閉じた。ガラスの中にいるのに、まるで海からの風を感じているようだ。
静かな波の音しか聞こえない数瞬ののち、ふっと息を吐いたリュミエールは、煌めく宝石のような瞳を開くと僕を真っ直ぐに見つめた。
今こそその時だ、と言うように。

「さあ、準備はいいか、少年。イーライの息子ユーリよ。この世界には、あの男ですら見つけ出せなかった神秘がまだまだ眠っている。いざ征かん、さらなる未知を求めて!」

リュミエールの高らかな宣言とともに、夜明けの最初の光が旅立つ僕らに向けて差し込んだ。

新しい日が、新しい旅路が、始まる。

イーライ(イライアス)はユーリの生まれる2年前に結婚、リュミエールの元を離れた。ユーリは17歳。


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