Nikki, どこでもない博物館

【概要】どこでもない博物館

どこでもない博物館。それは地図には記されない場所。それは伝承であり、現実。それは宮殿から、霧深い森から、あるいは路地の先から繋がる隠された場所。どこにもなくて、どこにでもある。今そこにあったのに、もうなくなっている。

なぜ隠されているのか——それは訪れたなら自ずとわかるでしょう。

そこに収蔵される品は、古今東西広しと言えど、ここにしかないものばかり。伝説と神話、技術と工芸の粋。あらゆる方向に卓越した美たち。

訪れられたならあなたは幸運——あるいは、不幸。なぜなら、この博物館の展示品を、この美しくものたちを見て圧倒され、酔いしれたあなたは決して今までの生活には戻れないのだから。

さあ、扉をくぐる準備はできた?


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Nikki, どこでもない博物館

“月”を冠するその瞳

夜の闇、そこからふわりと溶けだしてきたような黒装束の女。その双眸が、月の光を受けて輝いている。
彼女の名はセレーネ・ティターニア。どこにあるとも知れない、あの博物館の館長だ。
月の女神、あるいは月そのものの名を持つ彼女は、その名に相応しい力を備えていた。身体能力が優れているとか、不思議な力を使えるとか、そういうものではない。彼女が特別なのは、その瞳のせいだった。
彼女の、月の光を集めたように蒼白く輝く瞳は千里を見通す――物事の本質を否応なしに見抜くのだ。
世界中に散らばり、正当な評価も受けず、あるいは隠され虐げられてきた美を集め、保護するのが、博物館長である彼女の役目。
この博物館は彼女の砦、彼女そのもの。彼女の瞳が保証した、他では決して見ることなどできない美術品たちは、彼女の誇りであり、愛すべき存在である。たとえそれが、その美しさゆえに大きな危険を孕むものだったとしても――

彼女は今日も夜を歩く。
世界に埋もれた美術品はまだ数限りない。今日は、あの森の奥に住まう”藤の奥方”に呼ばれて来たのだが、示されたのは一枚の絵。

「綺麗でしょう、<月の瞳>モンデンアウゲン?でもきっと、これはここに置いておけば気味悪がられ、負の感情しか寄せ付けなくなる。だから貴女に託したいの。——受けてくださる?」
「ええ、もちろんです、<藤の奥方>マダム・ウィステリア。」
セレーネはその瞳を絵に向けて言う。
「この純粋で儚く、美しさしか知らない作品は、まさに我が博物館に展示するに相応しい。——この絵のために、静かで月明かりの差す一角を空けておきましょう。」

月が照らす道を博物館へと辿りながら、セレーネはアシュリー・スワンを思い浮かべた。
最近は絵を持ち帰ることがなかったから、きっとアシュリーは喜ぶだろう。もしかしたら何日も徹夜でこの絵を調べ上げるかもしれない。
それを苦笑しつつ手伝うルイ=アルベールに、庭師としてもこの絵に興味を示すルーチェ。ミヒャエルはきっと、このことをあの天使に話すのだろう。

人知れず微笑を零し、セレーネは帰路を急ぐ。美しき美術品が咲き誇るあの花園へと。彼女の家へと。

博物館館長 セレーネ・ティターニア
月の女神、あるいは月そのものの名を持つ。その蒼い瞳は美術品の本質や価値を的確に見抜く。美術品だけでなく人の本質も見抜いてしまう。博物館にある展示品は、ほとんど彼女が自ら集めてきたもの。藤の奥方と親交があるとかないとか。


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Nikki, どこでもない博物館

世界を切り取る

決して主役にはならないし、なってはいけない。それが額縁。それが台座。そしてそれを作るのが、僕。
館長たちに展示品の謂れを教わり、自分でも実際に見て(見て大丈夫なものだったら、の話だけど)、デザインを決める。楽しい。頭の中にある形になっていない要素を、紙の上で構築していく作業だ。
最も相応しい素材を選び、デザインを素材に書き映して、いよいよ彫り始める。ああ、楽しい。模様と自分を同化させるような。ただの素材だったものに命を吹き込むような。
僕の作品は、展示品と外の世界を分ける境界線だ。これがあるから、見る人は、何て言うんだろう。安心して鑑賞できると自負しているし、展示品の方もやっと落ち着けると信じている。

今までたくさんのものを作ってきた。でも、檻を作るのは初めてだ。

何でも、博物館に天使がやってくるらしい。形容詞ではない。本物の天使だそうだ。天から降りてきたのはいいが、羽ばたく力が足りず、帰れなくなったとか。だからしばらくここで面倒を見るが、出歩かれても困るから隔離するらしい。確かに、建物の外の空間はいつでも組み変わっていて迷うとそれこそ一大事だし、見たら危険な絵なんかもある。人の指図など受けないだろうからまあ、納得の処遇ではある。
それでも僕は、天使を檻に閉じ込めるのは気が引けた。だから、実際にその天使に会ってみて、檻以外に何か隔離法がないか探すことにしたのだけれど。

いきなり横から殴られたような衝撃。
天使は幼げな女の子の姿をしていた。その美しさ、儚さ、純粋さ、高貴さといったら。
ふわりふわりと漂うように浮かび、たまに羽が舞い落ちる。光の粒が彼女を取り囲んでいて、身動きをするたびにその粒が動き回る。春の息吹をそのまま色にしたかのような瞳が僕を見つめる。——それで、それだけで、僕は天使に恋をした。

いつでも出ていけるよう、鍵はつけまいと思っていた。
でも、だめだ。鍵がないと、天使は僕のところから消えてしまう。すぐに壊れてしまう檻でもだめだ。僕のところから逃げてしまう。
天使がいなくなるだなんて考えられない。絶対に、嫌だ……!

鍵は最高級に頑丈なものを。
檻は最高級に硬く靭やかな素材を。
ああ、檻は美しくない。天使が使うのだから、最高に美しくなくては。——そうだ、鳥籠はどうだろう?僕の全てをかけて作り上げる、繊細で美しく靭やかな鳥籠。
ああ、嗚呼、早くあの愛しい天使を、僕の鳥籠に閉じ込めてしまいたい——

額縁職人 ミヒャエル
展示品に最も合うデザインの額縁や台座を製作している。天使の鳥籠を作ったのも彼。彼の作る額縁や台座は、それだけで美術品となり得るほどの出来栄え。天使に恋心を抱き、天に帰してやりたいと思い鍵を開けようとするも、そうすれば天使はいなくなってしまうと知り閉じ込める。


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Nikki, どこでもない博物館

色づく世界

光を知らない。色を知らない。
でも、セレーネさんに出会った時、確かに私の世界は色を帯び、光に満ちた。
ここに来る前のことは、もう彼方に”色褪せて”しまっていて、ほとんど思い出せなくなってしまったけれど、私はそれでいい。この博物館で、ずっと、セレーネさんやルイさん、アシュリーさんにミヒャエル、そしてこの素晴らしき美術品と一緒に居られることが私の幸せなのだ。

生まれた時から光を知らない私は、だけど他の感覚は人並みはずれていたそうで。視覚の代わりに聴覚、触覚、嗅覚なんかを使えばできないことなどなかった。庭師だった父について回り、ほんの子どもながらその技術を吸収した。
だけど別れは唐突で。父と母は、私をおいて逝ってしまった。

『君の才能を借りたい。君にしかできないことがある。』
そんな時、そう声をかけてくれたのがセレーネさん。
両親は死別し、保護者もいない。そんな私がセレーネさんの申し出を断るはずもなく。
そうして私は、この博物館の一員になった。

今の私の仕事は、博物館の中庭の世話をすること。”色とりどりの”花たちを世話し、最も美しく見せること。私に色はわからないけれど、咲き乱れる花々が色に溢れていることは全身の感覚が教えてくれる。
それから、もう一つ。
「見るべきではない」作品の手入れをすること。『メデューサの瞳』や、あの美しい魔女の婚礼の絵……ここには、目で見るべきではない作品もたくさん置かれている。そういう作品の手入れをするのも私の仕事。私にしか、できない仕事。

私の存在意義は、ここにある。

学芸員 ルーチェ
盲目の少女。「メデューサの瞳」や「魔女の婚礼」など目にすべきではない作品を担当。庭師でもある。


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自由の羽撃き

「気をつけなさい。あなたのその考え方は、危険な思想ですよ。」
博士論文を書いていた時、そう言われた。
この国では、信仰に反するもの、それだけならまだいい、信仰に疑義を抱かせるものは一纏めに危険思想とされる。
俺がそれでどうしたか?——撤回などするわけがない。俺の思想は俺だけのもので、誰に強制される謂れもないし、俺がこれまで積み上げてきた思想の集大成とも言える研究結果を白紙に戻すようなものだ。
そして俺は大学にはいられなくなった。もちろん就職先など無い。
残ったのは誇りだけ。博士号の称号も、金も、未来も、掴めそうなところからするりと抜け落ちていった。

誇りだけは失うまいと、しかし途方にくれていた時に迷い込んだのがこの博物館。
ここに展示されているものを見て、ああ、俺はもう元の生活には戻れないと確信した。
考えてもみてくれ。人魚に死神、魔女に異種族間の愛……俺の故郷では倫理的・道義的に許されざるものも、ここでは分け隔てなく貴重な美術品として扱われているのだ。それだけじゃない。全ての美術品が持つ圧倒的な美しさ。ただ美しい、それだけを最高の基準として選び抜かれた数々の品。
ここに居たい。いや、もう俺には、ここにしか居場所などないと思った。そしてそう思うと止まれなかった。博物館中を、館長を探して回ったのだ。
「僕を、ここで働かせてください。」
完璧に手入れされた中庭の東屋で、ようやく館長を見つけてそう言った。言った瞬間、涙が溢れたのを、今でもはっきりと覚えている。展示品に圧倒されたこと、今までの人生とか、研究とか、色々な思いが混ざり合っての涙だったのだと思う。
館長はしばらく、その月の瞳で俺を見つめた後、ゆったりと微笑んで、俺を受け入れることを決めた。

それからどれほどの月日が流れただろう。
今や俺は副館長の地位まで預かっている。……俺しかいない、というのが本当のところだ。ルーチェやアシュリーは俺より前からここに居たが、彼女たちは……事務仕事は向いていない。それが彼女たちのいいところでもあるのだが、自分の世界に没頭しすぎるのだ。
というわけで俺が、……館長に言わせるところの一番まともに見える俺が、副館長として博物館の運営やら事務やらを引き受けている。
嫌ではない。むしろ、俺を信頼して留守を任せてくれる館長には感謝しかない。
自分の専門分野の知識も、学芸員として役立てられている。何より、この美しい展示品のそばに居られるというのは何という僥倖なのだろう。

ここはどこでもない博物館。何人も、何かに縛らることのない場所だ。

学芸員 ルイ=アルベール・ブランシュ
学芸員兼副館長。留守が多い館長と、ふわふわした人間が多い学芸員に囲まれた常識人。事務仕事はピカイチだし専門分野に対する知識も群を抜いている。一人称は俺だけど仕事中は僕。専門は考古及び建築、彫刻。博物館でただ1人、自分から志願して学芸員になった。


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本の虫

「アシュリー!」
自分を呼ぶ声にはっと我に帰る。正面に立って顔を覗き込んでいるのは、副館長のルイ=アルベールさんだった。
「……?……!あっ、えっ、すみません、また私……?」
慌てて立ち上がった拍子にそばに積んでいた本を突き飛ばしてしまい、あやうく本の雪崩が起きかけたところを、ルイさんがすんでのところで支えてくれた。
「そう、また、だ。せめて寝食ぐらいは忘れないようにしてくれ……流石に俺も、君がある日過労死してるのを見つけるのは寝覚めが悪い。まあ確かに、展示品や文献に没頭する気持ちはわかるけどな。」
ルイさんが苦笑しながら言う。またしても私は、本の山に埋もれたまま夢中になって研究に耽っていたらしい。
「ええと、私、どのぐらいの時間こうしてました……?」
「さあな、俺も正確な時間は知らないが、少なくとも3日、俺は君の姿を見ていなかった。」
「3日……!」
か、それ以上。本に夢中になるあまり、他の仕事を3日もほったらかしてしまった。絶句した私を見て、またルイさんが笑う。
「心配するな。急ぎの要件はないし、展示室の方も問題はない。」
「すみません……いつもいつも同じことしちゃって……」
「ま、君はそういう奴なんだ、俺たちもそれはわかっているし、だからこそここで学芸員してるんだろ。別に気に病む必要はないさ。——さあ、館長がもうすぐ帰ってくるぞ。さっき連絡があった。新しい絵も持って帰ってくるらしい。出番だな、アシュリー。」
それを聞いて、現金な話だが私の思考は完全に新しい絵にとらわれてしまった。
「ほんとですか!うわーっ、嬉しい!最近絵はあんまり来なかったから……で、どんな絵なんです?誰の作品?いつのなんですか?」
矢継ぎ早に質問を繰り出すと、ルイさんは一歩近づいてぐい、と人指し指で私の額を押した。
「待った。先に身なりを整えて食事をしてこい。君は新しい絵をそんな姿で迎えるつもりか?」「!っはい!アシュリー・スワン、出直してまいります!」
水を得た魚のようにぴんと背筋を伸ばし、いそいそと自室へ向かうアシュリーの背中を見て、ルイ=アルベール・ブランシュは微笑ましさを覚えると同時に、なりふり構わず美術品に没頭できるアシュリーへの尊敬を再確認した。

学芸員  アシュリー・スワン
専門は文学と絵画。伝承・伝説にも詳しい。いわゆる本の虫で、暇な時は大抵本に埋もれている。新しい絵画などを見ると夢中で研究に没頭し、寝食も忘れるほど。


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Nikki, どこでもない博物館

鳥籠の天使

帰りたいかと問われれば、帰りたい。けれど、別に、今すぐ帰りたいというわけでもない。ここは、素敵。人間界に降りてみて、息苦しさに辟易して、しかも帰れなくなってしまって、少し。少しだけ心細くなったのだけど。それでも、人間は捨てたものではなくて、わたしをここに送ってくれた。ここは、「博物館」というところ。わたしたちのものさしでも、素敵だと思えるものがたくさんあった。——もういちど、見たいのだけれど、そう言えば見せてくれるかしら?
くるん。半回転。全部が、逆さま。あの、人の子が揃えてくれた調度品も、全部が逆さま。あの子の選んだ品々は、お気に入り。あの子はいつも、私に語りかけて——昨日は、そうね、新しい絵が持ち込まれたことを話してくれた。見せて欲しい、と言ったのだけど、わたしの言葉は人には届かない。今日は、あの子は花をくれた。少し頬が赤かったわ。可愛らしいけれど、何かあったのかしら。ちょっと辛そうな顔にも見えた。人間って不思議ね。
あーあ、わたしの言葉は届かない。退屈になってきちゃった。ここを出たら、次はどこへ行こうかしら。


天使と人は、どちらも神に似せて創られたという。しかし、似た形をしていたとしても、天使と人は全く別のモノだ。啓示の天使を除いて、天使の声が人に聞こえることはない。彼らが慈愛の表情を浮かべるのは、そう定められているから。彼らが裁きを行うのは、そう定められているから。
人が天の使いたる彼らを理解できないように、天使もまた、人の感情を理解することはないのだ。
——ある神学者のメモより


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永遠の人魚

『王子様とお姫様は末長く幸せに暮らしました』

お伽話は、そこでお終い。

だけど彼らが生きている限り、物語は続くのです。

今日語るのは、そんなお話。

✳︎✳︎✳︎

人間の王子様と、人魚のお姫様が結ばれると、地上の国にも海の国にも平和で穏やかな時代がやってきました。

地上の生き物たちは海の生き物たちを、海の生き物たちは地上の生き物たちを、互いに尊重しあい祝福し合う日々でした。

その中心にいたのが、王子様と人魚姫でした。

ふたりの幸せそうな様子といったら!どんな宝石も、どんな星空もかなわないほどです。

でも、王子様はある時気が付きました。

自分はだんだん年を取っていくのに、最愛の妻は出会った時から全くその容姿が変わらないのです。

それは考えてみれば当たり前のことでした。

人魚というのは妖精の一族。大人になると、その命の終わりまで姿が変わらないのです。そして、妖精の中でも人魚というのは得てして人間より長命でした。

王子様——今はもう、王様でした——は言いました。

「誰よりも愛おしい貴女を置いて逝く私を許しておくれ」

人魚姫——今はもう、お妃様でした——は言いました。

「誰よりも愛おしい貴方とともに月日を歩めない私をお許しください」

ある星の美しい晩、ふたりが手に手を取って涙を流した時、どこからともなく冷たく澄んだ風が吹きこんできました。

そちらに目を向けてみると、中庭に吹雪を纏った魔法使いが立っています。

魔法使いはふたりが泣くわけを聞くと、ふたりにこれからもずっと一緒に居たいのかと尋ねました。

「私は、あなたがたがずっと一緒に居られる方法を知っています。人が生きるより長く、人魚が生きるよりもっと長く。誰もあなたがたを覚えていない、そんな永劫の時を、互いだけを支えに存在し続ける。そういう方法です。王と妃という地位も、人や人魚という枠組みも、全て捨て去ってしまうということです。それでも、望みますか。」

王様とお妃様は、しばらく見つめあった後、どちらからとなく微笑んで、深く頷きました。

✳︎✳︎✳︎

栄えた国があったのでしょう。

お城があったと思しき場所は、今や植物の王国となっています。

その中にぽつんとひとつ、美しい像がありました。

気の遠くなるような年月、この場所で風雨にさらされてきたはずなのに、像はまるで今しがた出来上がったかのように美しいのです。

あの日、魔法使いはふたりをこの像に変えました。お妃様の姿を残したいと言ったのは王様です。海の底で生きられない自分のために地上で生きることを選んでくれた最愛の妻の美を永遠のものにしたい、自分はそれを守り、繋ぎ止めるための楔になりたいのだと。

そうして王様は、この世とお妃様をつなぐ楔——尾びれでは立っていられないお妃様を揺るぎなく支える台座となりました。

こうして世に二つとない人魚像ができあがりました。像と台座は決して分けられず、ふたりは永遠にひとつになりました。

人魚像の顔は、いつも優しい微笑みをたたえています。見る人によって表情が変わるという人もいます。

もしかしたら、王様とお妃様がお話をしているのかもしれません。


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