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心ばかりの贈り物

 オットーはそれを見て息を呑んだ。
 トゥーリは驚愕し、次いで目を輝かせた。
 ユストクスはそれとそれを見せた彼の主を交互に見て、笑いを堪えるようにコホンとひとつ咳をした。
 エックハルトも驚きはしたが、それが彼の主の望みならばと全てを飲み込んだ。

 そして、その場を驚愕の渦に叩き込んだ張本人――フェルディナンドは、ユストクスが一歩後ろで笑いを堪えているのを感じてグッと眉間に皺を寄せた。周りを驚かせたことに対しては、当然そうなるだろうと予想していたので特に何も思わないが。

「それで、夏までに可能なのか」
 軽く息を吐きながら、フェルディナンドはオットーとトゥーリに尋ねる。尋ねてはいるが、上級貴族であり、アウブ・アレキサンドリアの婚約者からの言葉である。できない、などという答えは存在しない。いくら彼がローゼマインの――マインの婚約者であり、オットーやトゥーリに対して無理強いをするような人物ではないと分かっていたとしても、そこはそれ、だ。


 フェルディナンドが来客を迎える場に、護衛騎士たるエックハルトと側仕えたるユストクスの僅か2名しか同席していないのは珍しいことではない。彼ら2人しか側に置いていないからといって、あえて人払いをしているのかとか、人に知られたくないことでもしているのかとか、そんなことを思う者は少なくともエーレンフェストとアレキサンドリアにはいない。
 だが生粋の上級貴族――それどころか領主一族であるフェルディナンドが、あえて神殿の応接室で、平民の商人と会合を開いているとなれば、これはなかなかに珍しいことではあった。普通の貴族であれば平民の商人など自分の居所に呼びつけてしまえば良いのだから。

 フェルディナンドがあえてそうまでした理由はただひとつ。
彼の全ての女神であり、麗しきアウブ・アレキサンドリアたるローゼマインに知られたくなかったからである。
 神殿であれば、エーレンフェストで神官長を務め、アレキサンドリアにおいても神殿や神事の重要性を周知すべく動いているフェルディナンドが出入りしたところで不審に思われることはない。レティーツィアも神殿にいるのだ、彼女の教育を受け持つ身としても不自然ではない。
 それを利用して、この日フェルディナンドはギルベルタ商会を呼び出したのだ。

「ローゼマインに贈る髪飾りを注文したい」
 到着したギルベルタ商会からの挨拶を受け、お茶の準備も整ったところでフェルディナンドは口火を切った。曰く、
「次の夏でローゼマインは成人を迎える。貴族としての成人式は冬の終わりになるが、夏は一つの節目になろう。洗礼式にも髪飾りを贈ったが、今回もそうしたい」
 だそうだ。
 (ギルベルタ商会にとって特別で大切なお客様ではあるが)特に構えることもない、ローゼマインの季節ごとの注文や、さまざまな貴族からの注文と同じである。……同じであった。フェルディナンドがユストクスに命じて小さな木箱を取り出すまでは。

 これを使ってもらいたいのだ、と木箱の中身を見せた途端、オットーはその価値に息を呑み、額に汗すらにじませた。その隣でトゥーリは驚愕しつつこんなすごいもの見たことない!と目を輝かせている。
 木箱を開けたのはユストクスだったが、彼もフェルディナンドからこれを持ってくるように言われただけで中身を知っていたわけではない。「これを? 本当に?」と言わんばかりに木箱の中身と彼の主を見比べ、フェルディナンドが至極真面目な顔をしていることに気づくと、にこりと……側から見れば胡散臭さを感じさせる笑みを浮かべ、コホンとひとつ咳をした。
 驚きつつも全てを飲み込んだエックハルトではあったが、彼もただただ盲目的だったわけではない。彼は――ユストクスもそうだが――彼の唯一の主たるフェルディナンドが、自らの妹であるローゼマインをどれだけ大事に思っているか、そしてローゼマインがその全てに応えてきたことを知っているから、これについても異を唱えるわけでもなく、自然に受け入れたのだ。

 木箱の中身は虹色魔石だった。
 平民であるオットーやトゥーリにとっては、それは虹色に光り輝く大層美しい宝石であり、フェルディナンドをはじめエックハルトやユストクスにとっては、全ての属性をもつ大層貴重な素材である。小さく美しくカットされ、それゆえに光を至るところで反射しさらに輝きを増した虹色魔石が、木箱の中で布に包まれて山を作っていた。
 その場にいる者にとって、虹色魔石に対する価値観は様々だったが、これを惜しげもなく使えと指示するなど普通ではないということは全員一致の意見である。

 驚きであったり、これ以上頬が緩むのを我慢したり、口を開けるような身分ではなかったりで沈黙が落ちた部屋に、ハアとフェルディナンドの溜息が響いた。


 結局、フェルディナンドが押し通す……というより「これを使うのが当たり前だ」とでも言うように淡々と話を進めるので、他の誰にも止められるはずもなく、デザインやイメージを共有し、虹色魔石をどう使うのかまであれよあれよという間に決まってしまった。
 デザインを決める間に、
「これもお守りとしてローゼマイン様に贈られるのですか?」
 と聞いたユストクスが、
「いや、これはお守りにはせぬ。量があるとはいえここまで小さい魔石に魔法陣を刻むのは労力にしかならぬ上に魔力効率が悪すぎる」
 ただの装飾品だ、と平然と返されて絶句したのは余談である。

「ああ、それから、トゥーリ」
 決めるべきことが決まり、会合も終わりの空気が漂う頃、、思い出したようにフェルディナンドは付け加えた。
「この髪飾りだが、ギュンターやエーファにも協力してもらいたい」
「はい!――お任せくださいませ」
 聞いた途端、トゥーリはぱあっと顔を綻ばせ、しかしすぐにはっとしたように表情を取り繕うと、恭しく礼をした。

 ちなみに、オットーは髪飾り制作のために虹色魔石を預かって持ち帰ることを断固拒否した。見るからに恐ろしく貴重な宝石なのだ、何かあっては彼の首が飛ぶだけでは済まされないだろう。恐ろしすぎる。
 そんなわけで、レース部分ができあがった後に、神殿の一室を借り、神殿の側仕え、あるいはエックハルトやユストクスの見張りの下、虹色魔石を飾りつける作業が行われることとなった。
好きで受けた注文とはいえ、勝手知ったる工房ではなく、(しかも貴族の)見張り付きで作業を行わなければならなくなったトゥーリの苦労も偲ばれるものである。

 ギルベルタ商会との会合を終え、城に戻ろうと神殿の回廊を移動しながら、それにしても、とユストクスが声を上げる。
「フェルディナンド様はローゼマイン様の婚約者なのですから、髪飾りを贈るのに無理に理由など探さずともよいのではありませんか?」
 マインの実年齢での成人は1年前に迎えているし、逆にローゼマインの貴族としての成人式はまだ季節2つ分ほど先だ。きっとフェルディナンドは貴族院の卒業や成人式、そして(待ちに待った)星結びに合わせ、他に類を見ない贈り物をするに違いないのだ。それがわかっているのに、あえて今「ローゼマインが成人の季節を迎えたから」という理由であんな物凄いものを贈るというのはいささか無理矢理な感があるのではないかとユストクスは言いたいのだ。
 しかしそれを知ってか知らずか(いや、彼のことだから確実に分かっているのだろう)、フェルディナンドはフンと鼻を鳴らして言うのだ。
「……理由が必要なのはローゼマインの方だ。商人としての考え方が染み付いているのであろう、あれでなかなか疑り深いところがあるからな。理由もなく渡せば、なにか交換条件があるのではないかと勘繰られる」
 これまでもそうだったのだ、と思い出すように眉間に皺を刻むフェルディナンドをちらりと見ながら、ユストクスは、フェルディナンド様も今回の髪飾りがかなり大仰なものだと自覚されているし、結局のところこの方は交換条件だの何だのと疑われることなく、彼の全ての女神たるローゼマイン様にただただ贈り物がしたいだけなのだと気付いた。
 もっとも、それを口に出すことはしない。いくら忠誠を誓った主とはいえ、惚気に付き合う気はなかったのである。


 髪飾りは注文どおり、夏の半ばに納品された。
 トゥーリが恭しく木箱から注文の品を取り出し、緊張の面持ちで注文主の反応を伺う。フェルディナンドから髪飾りの注文を受けるのは初めてではないが、下町にいる時ならともかく貴族としてのフェルディナンドと向き合うのはかなり神経を使うのだ。

 ユストクスを通じて眼前に差し出された髪飾りを手に取り、フェルディナンドは様々な角度から完成品を見聞し――そして、満足そうに目を細めた。
 とはいえ表情は変わらないのだが。
 いつも通りの難しそうな表情を崩さないフェルディナンドにオットーは若干不安げにしているが、トゥーリはフェルディナンドの様子だけで十分だった。だんだんと、何となくではあるものの、トゥーリにもフェルディナンドという人物がわかりかけてきたのである。

 オットー、もといギルベルタ商会にとっても、終わってみれば今回の注文は今後につながる大きな成果だった。今までの髪飾りに異なる素材を加えることで、飾りとしても価格としてもさらに幅ができたのだ――魔石や宝石だけでなく、銀細工などとも使えるかもしれない。
 これを一番最初に身に付けるのが、ここ数年の流行の発信源であるアウブ・アレキサンドリアであるということも大きい。
 心臓に悪い思いをしたこともあったが、オットーにとっても実りの多い仕事だった。


 それから数日。
 ローゼマインを招いたお茶会の場で、和やかな空気の中、フェルディナンドが切り出した。

「ローゼマイン、これを、君に」
 フェルディナンドに目くばせされたユクトクスが、恭しく木箱を差し出す。リーゼレータが受け取ろうとしたのを手で制し、フェルディナンドは手ずから木箱を開け、そっと中身を取り出した。
「フェ、フェルディナンド様……」
 取り出された髪飾りを見て、ローゼマインは小さく口を開けたまま固まってしまった。
周囲からもハッと息を飲む音がする。

 夏の貴色をふんだんに使い、それでいてローゼマインの夜空の髪に映えるよう、コバルトブルーから白へと移りゆく大輪のコラレーリエ。その周りを、蔦のように這う緑葉と可憐なリューツィの花が控えめでありながらしっかりと存在を主張し髪飾りの土台を支えている――そう、まさに花言葉家族への愛のとおり、目立つことはなくとも”彼ら”がローゼマインを、マインを愛し、心の支えとしてあり続けたように。
 これだけでもトゥーリが心と技術の粋を込めて作り上げたものだということがよくわかる。フェルディナンドが注文したのであれば、トゥーリだけでなく、きっとギュンターがこの木の部分を削ったのだろうし、エーファも手伝ったのだろう。もしかしたらカミルもなにか協力してくれたかもしれない。きっとそうだ。フェルディナンドはローゼマインにとっての髪飾りの価値と想いを知っているし、下町の家族はフェルディナンドがローゼマインに抱く想いを知っているのだから。

 そして、髪飾りはさらに特別だった。
 小さな虹色魔石がレースでできた花弁のいたるところにちりばめられ、まるで日の光を浴びた朝露のように、見る角度によってきらり、きらりと輝いているのだ。これはフェルディナンドが提供したものなのだろう、考えずともわかる。虹色魔石をこんなにもふんだんに惜しげもなく使い、それを自分に贈ってくれる人など、彼の他にローゼマインは知らない。

 一目見て、この髪飾りに込められた全てを受け止めてしまったローゼマインはもう、感情がいっぱいいっぱいだとでも言いたげに、今にも泣きだしそうな――そして、祝福も飛び出しそうな顔をしている。飛び出さないのは、人前で感情を抑える努力をこれまで重ねてきたからに他ならない。
 そんなローゼマインに、フェルディナンドは追い討ちをかけた。

「成人おめでとう、ローゼマイン。成人式まではまだ日があるが、夏生まれの君はここで成人を迎える。洗礼前から君の成長を見てきたが……極端に虚弱な身を抱え、いま無事に成人を迎えてくれた君への、そして……一度ならず二度までも……いや、幾度となく私の命と私自身を救ってくれた君への、ほんの心ばかりの贈り物だ」

 庇護者として後見人として自分を守り育ててくれ、これからの人生を共に歩むと誓った大切な人が、真摯に言葉を紡いでくれる。そこに込められた心の深さが、わかりにくくも僅かに優しく細められた瞳から、痛いほどに、痺れるほどに伝わってくる。
 フェルディナンドに何か言葉を返さねばと、どうにか祝福を抑え込んだローゼマインのかたちの良い唇が開き、しかし声にはならず震える吐息が零れ落ちる。いっぱいに開かれて潤む瞳が、髪飾りとフェルディナンドを交互に見つめていた。

 ――言葉にできない感動に震えるローゼマインと反対に、フェルディナンドの言葉に周囲の空気はさらにざわめいた。
 これほどのものを、「心ばかりの贈り物」と宣うのだ、この男は。
 それをエーヴィリーベの独占欲や顕示欲の顕れだと言ってしまえばそれまでかもしれない。
 しかし、フェルディナンドが幼少のみぎりからローゼマインを大切に庇護し教育を与え、この貴族社会で生きられるよう力を尽くしたこともまた周知の事実だ。この髪飾りにしても、将来を約束した女性への贈り物としての側面は確かに、そして確固としてあるのだが、先ほどフェルディナンド自身が語った、あの虚弱なローゼマインがここまで生きてくれたという感謝と成長への喜びも確かにある。ローゼマインがしっかりと感じ取ったように、その場にいる者たちにもそれはわかっている。
 ただ……そうではあるのだが、そしてフェルディナンド自身はそちらの理由の方を推したいのだろうが、貴重な虹色魔石をふんだんに使用し、レース部分もローゼマインの専属職人による最高級品という、貴族同士のやり取りに慣れた側近たちから見ても常識的な贈り物の範疇を軽々と飛び越えた”だいぶヤバい”髪飾りを贈っているという時点で――結局フェルディナンドに対する周囲の目は「エーヴィリーベ」に落ち着いてしまうのだった。

「フェルディナンド様……ありがとう存じます」
 しばらく押し黙って感動を噛み締めていたローゼマインは、ようやくそれだけ言うと溢れかえる幸福感と感謝を言葉にするのを諦めた。どれだけ本を読み知識を蓄えても、この心を表す言葉を知らない、という状況は起こるのだ。
 だからローゼマインは、髪飾りをそっと受け取り、側に控えるリーゼレータに差し出した。
「リーゼレータ、つけてもらえる?」
「もちろんです」
 リーゼレータは即座に、そして細心の注意を払って髪飾りを手に取ると、今ローゼマインがつけている5連の魔石の簪と、以前トゥーリが作った髪飾りを抜き取る。これもローゼマインのお気に入りだ。
 それから、美しく纏められた髪を乱さぬように新しい髪飾りをそっと差し込む。少し離れたり、右や左から位置を確認したりした。
「できました、ローゼマイン様」
 そう言ってリーゼレータが離れると、軽く閉じていたローゼマインの瞳がぱっちりと開いた。

「どうですか?」
 くるりとフェルディナンドに背を向け、貰ったばかりの髪飾りを見せる。ローゼマインの夜空の髪にコラレーリエのコバルトブルーが自然に溶け込み、そこから浮かび上がるように白を増す花弁。リューツィの花がふわりとまとわりつく様はまるで夜空に浮かぶ雲だ。それもあって、朝露のようだと評された虹色魔石は揺れるたびにきらきらと光を受け、ローゼマインの髪の上で真砂星となった。

 デザインを決めた時から、似合うだろう、とはフェルディナンドも予想していた。そして、出来上がった実物を見てそれは確信に変わった。
 だが、花の髪飾りが夜空の星の髪飾りになるなどと、誰が想像しただろう。
「悪くはない」
 フェルディナンドの想定以上だったこともあり、素直な褒め言葉は出てこないが、ローゼマインにはそれで十分伝わったようだ。花が咲くように晴れやかに笑って、虹色魔石の輝きを感じるようにふわふわと頭を揺らす。
 フェルディナンドはつい2人でいる時にするようにローゼマインの髪に手を伸ばしかけ、それを慌てて止めると誤魔化すようにぎゅうと拳を握った。

 そんな中、ローゼマインの動きがふと止まる。
 以前餞別として贈られた5連の虹色魔石の簪は、普段から身に付けられるよう、他の髪飾りと組み合わせて使えるデザインだった。しかし今回のものはどうだろうか。
「あの、フェルディナンド様……ええと……これ、お守り、ですよね? その……大変ありがたいし嬉しいのですけれど」
 喜色に溢れていたローゼマインの月の瞳が、少し焦ったように逸らされる。
「その、こんなに立派なものですもの、普段から肌身離さずつけているのが少々難しいと……思うのです……」

「いや、これはお守りではない。」
 フェルディナンドは椅子に深く背をもたせかけると、何でもないとでもいうように告げた。
 それにより、落ち着いたかに見えた部屋がまたしてもざわめく。
 ローゼマインも、再び小さく口を開く。ぽかん、というのがぴったりな表情だった。
「ここまで小さい魔石に魔法陣を刻むなど魔力効率が悪すぎる」
 いつかどこかで聞いたようなセリフをこともなげに投げたフェルディナンドは、続けてぽかんと口を開けたままだったローゼマインを眉を寄せて見やる。
「口を閉じなさい。淑女がはしたない」
 言われて慌てて口を閉じ、しかし困惑と驚きを隠せずに、ローゼマインは言い募る。
「えっ……と、小さいとはいえこれだけの虹色魔石を? ただの装飾品として……?」
「最初に装飾品によさそうだと言ったのは君だろう、以前にもこの会話はしたはずだが」
「あ、あの時は、装飾品にするだけではもったいないからお守りにしたと言っていたでは……ないですか……」
「だから、言ったであろう、今回のものは『心ばかりの贈り物だ』、と。――そんなに嫌なのか」
 嫌なのか、と言いながら、感情を隠すことに長けた彼らしくもなく、フェルディナンドの瞳には不満と混ざり合ってちらりと不安が覗いていた――が、それは瞬時に霧散した。彼を見つめるローゼマインが、その愛らしく美しい頬を薄く染め、彼の愛してやまない金の瞳を潤ませているのを目の当たりにしたからだ。
 フェルディナンドは、それがローゼマインが大きな幸せを感じるときの表情だと既に知っている。
 もっとも、先ほどに続き大きく感情を揺らすことについては苦言も呈したくなるのだが。
 フェルディナンドは一応、「感情を抑えなさい」と言ってはみたものの、その幸せそうな表情を作ったのが他でもない自分自身であるということに喜びを感じてしまったのをしっかり自覚しているし、自分の言動で感情を揺らすローゼマインをもっと見ていたい、と思ってしまったのも確かだ。……主治医は彼なのだ、危険なラインはよく弁えている。

 「嫌なのか」と問われて慌てたのはローゼマインの方である。どうにも自分を不幸な方へと追い込もうとし、思考もマイナス方向に傾倒するきらいがあるフェルディナンドのことだ。こと彼自身に向かう好意にはことさら鈍いのだから、嬉しかったことには嬉しいと、幸せをもらったならば幸せだと、しっかりと言葉にして伝えなければ勝手に誤解して諦めてしまうのを、ローゼマインはよくよく知っている。
「いいい嫌なんかではありません! 逆です、逆! だってこんな、こんなすごいもの……」

 きちんと言葉にしようと思ったのはローゼマイン自身なのに、言葉は吐息に混ざって消える。
 ――毎日身につけるには大仰すぎるからお守りにはせず、だから心しか籠められなかった、などと。
 それを言葉どおり「心ばかり」だなどと。

 嬉しいやら恥ずかしいやらでぶわりと熱を持った頬を手で覆い、きゅっと目を瞑ってしまったローゼマインは、髪飾りを贈った当の本人の耳が今さらほんのりと朱に染まっていることには気づけなかった。


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修行前夜

 存外、力を求めていたのだなと思った。

 斬るために。勝つために。存在するために――僕らは力を求めている。刀なのだから当然だ。
 そう思い過ごすうち、なぜ、斬るのか。なぜ、勝つのか。なぜ、存在せねばならぬのか。それを考えるようになった。考えても答えは出ず、書くことで思考をまとめようと日記を始めたのだった。
 ――考えるということは「雅を解する」ことでもあると知ったのはかなり後になってからだったか。

 日記をつけ始めて幾年も過ぎた頃には、始めた理由すら忘れてしまっていた。彼女と、彼女たちと過ごす日々そのものが存在理由になったから。

 ふと気にかかり、これまでに書き綴った日記を見返してみる。
 当時何があり、何を思ったか。事実と感想が綴られているだけのはずの日記は、今になって読み返してみれば自分でも驚くことに「力が欲しい」に集約されている。
 どうやら、自分の言う「力」というものが、この身を得てすぐに自覚したものよりも広い意味を持つようになったようだ。……確かにその変化の自覚はあるが、改めて突き付けられた。
 それでも、自分の大切な人を、大切な人が大切に思っているものを守るだけの力が欲しいという思いだけは一貫している。重ねられた日記帳をいくつかめくってみたところで、溢れていたのはそればかりだ。

 日々を記録し、考えを……心を整えるために始めた日記だった。
 ――なんとまあ、簡潔に整理できてしまっているじゃないか。

 そこまでとりとめもなく考えたところで、ぽつりと浮かんだ問いがある――あの方々は、どんな思いを抱えて生きていたのだろうか。
 僕がただの物であり、考えることなど知りもしなかったあの頃の、主たち。今の僕が彼らに相見えることがあるなら、僕は何を感じるのだろう。

 訪うには些か遅い時間だった。彼女はまだ眠ってはいないだろうが、行けば少し驚くかもしれない。
 しかし思い立ってしまった。もしかしたら、明日、明後日、その先に、もっと良い機会があるのかもしれない。だから、きっと、今なのだ。
 そう思うと止まれなかった。ここで止まってはいけないと思った。

 ひとつ、息を吐いて立ち上がる。
 自室の戸を開けるとまとわりつく初夏のぬるい風。それを吸い込み、体の奥に生まれた熱を和らげる。少しの逡巡は部屋に閉じ込めた。
 見上げる先には彼女の私室の明かりが灯っていた。

「ねえきみ。僕の話を聞いてくれないか」


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萌え出て煙る

「なんてことだ」
溜息と共に歌仙兼定は呟いた。
本丸は雨。静かな雨音が周囲を包み、目線の先の藤棚にも雫が滴っている。
五分咲き程度だろうか。水滴は藤紫に弾け、幹を黒々と濡らして滑り落ちていく。

物思いに沈む浅葱の瞳に映る藤棚と曇天が不意に揺らいだ。
このまま体の芯まで雨に濡れてしまいたいような不思議な焦燥感と、息がつまるような幸福感がこみ上げる。

——きみへの心を知ってから、きみへの想いが溢れて止まらない。きみを想うだけでこんなにも幸せなのに、なぜこの想いはこうも膨らみ続けるのだろう——

凭れるように手をついた縁側の柱はしっとりと湿気を帯びて冷たい。それがさらに、自身の心に籠った熱を自覚させた。

主に恋をしている。
ただそれだけのことだった。こんなにも簡単な言葉で説明できてしまう事象だというのに。

——恋や愛の歌ならば数え切れないほど知っているのに、この心を表す歌を、僕は知らない。

逸る心を覆うように、歌仙兼定は静かに目を伏せた。
萌え出て煙る皐月、雨音の庭。


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ディープ・ブルー

深く。どこまでも深く。
彼には自分は恵まれているという自覚がある。
最初にあったのは才能。天賦の身体。
そして、挫折と葛藤の度に、狂おしいほどの衝撃と、憧れと、悔しさで彼を奮い立たせる出会いがあった。
まるで神に愛された人間であるかのように、次々と試練にぶつかり、そして救済があるのだ。
しかし彼は神を信じてはいない。
——努力と決意に神は要らない。

深く深く、そして、より高みへ。


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道化

いつからこんな人間だったかなんて覚えてない。
ノアの遺伝子が覚醒してからだ、というのは確かに一番ありそうな話だ。だが元からそういう人間だった可能性だってある。
ノアがオレを偶然選んだのか。オレの根底にあるものが快楽のノアに選ばせたのか。まさに神のみぞ知る、って奴だ。
はは、どっちだっていいさ。だってオレは「快楽」のノアなんだから。どうせわからないなら考えるだけ無駄だろう?楽しんでみせろよ。


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ガウェインSS

フォウマ記念


朝一番の鳥の囀りに、白銀の騎士はゆっくりと目を開く。

「善き営みを守りたまえ」
薄らと光を帯びる空を見上げて小さく呟くと、騎士は自らが率いる軍勢を振り返った。

「さあ、立ちなさい。征伐の刻です。
剣を抜きなさい。我らの剣は錆に喰まれる為にあるのではない。今こそ我らの剣で、敵を討ち滅ぼすのです。
この夜明けは勝利の兆し、我が得るは太陽の加護!王に勝利を!ブリテンに栄光を!」

暁光が騎士を照らす。
白銀の甲冑には一点の曇りもなく、日輪の剣たる聖剣には傷の一つもあろうはずがない。
そしてそれを身につける騎士もまた、太陽の祝福を一身に浴びている。彼の金色の髪は太陽を映して煌めき、青空の瞳は力を湛えて地平線を見つめている。
進む先はまだ暗い。だからこそ、かの白銀の騎士、サー・ガウェインが赴くのだ。王と民に仇なす不浄を灼き清める為に。


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愛、あるいは狂気的な理性

時系列としては、アズカバンに送られて少しして、錯乱状態とも言えるところから落ち着いたあたり。理性と狂気の間でもある感じ。
シリウスが愛の戦士みたいになった。


人の言う「愛」というものが、これほど暖かい感情だったなんて。


あいつは——ジェームズは、こちらも拒んだわけではないのだが、遠慮もなく僕の内側に入り込んできた。それまで一人だった、一人きりで守り続けてきた僕の内側に。
魂が惹き合うとは、ジェームズとの関係のことを言うのだろう。意気投合などという言葉では足りない。まさに僕らの魂は二つで一つ、双子と言ってもいい。そんなジェームズを僕の心が拒むはずはなく、僕は自分が一人ではないことを知った。

次にいつの間にか僕の内側にいて、穏やかに微笑んでいたのはリーマスだった。彼の背負うものを知ったとき、なぜ彼はこんなにも穏やかに笑えるのだろうと思ったものだ。リーマスに聞いてみても、彼はただ、一緒にいられるのが幸せだからだよ、と微笑みを絶やさず言った。そんな彼の優しさで、僕は優しさを知った。

僕を人として成長させたのは、ピーターだった。リーマスと同じくいつの間にかそばにいて、あまりに心地好さそうに僕の内側に小さく丸まっているものだから、僕もそれを見ているのが心地よくなって、そして当たり前になった。それは、自分には守りたい人がいるのだと知ることでもあった。

窮屈になる?とんでもない。むしろ逆だった。彼らを、自分ではないものを自分の中に受け入れることで、僕は僕として生きられるようになったのだから。
僕の内側は賑やかになっていった。あの3人だけじゃない。あの3人が呼び水となったようで、僕は大切な人を僕の内側に受け入れるようになった。

それを「愛」というのだと気付いたのは、いつの頃だったろうか。
全身で僕に笑いかける幼子と、それを見て幸せそうに相好を崩した親友夫婦を見ながら、そんなことを考えていた。


——そしてあの日僕は、僕を僕たらしめるものを全て失った。

そうして私に残ったものは、空虚。そして絶望。
私を満たすものは、もはやどこにもなくなってしまった。彼らに出会う前は、自分の内側を満たすのは私自身だけだったはずなのに。一度大きく育ってしまった器は、もう元の矮小なあの頃になど戻りようがないのだ。


冷たく暗い絶望の中で虚無に沈もうとしていたとき、何かが指先に触れた気がした。もはや自分のかたちすら分からなくなりかけていた私の指先に。
その、ひどく暖かい何かは、私がそれに気づいたのを感じ取ったのか、私の指をふわりと握った。
それはとても小さな、あの幼子の——ハリーの手だった。

そうだ、まだこの子がいる。
私は、私を満たしてくれた彼らのためにも、この子を守っていかなければならない。

そう思ったとき、スイッチが切り替わったかのように全ての感覚が戻ってきた。
吹きすさぶ冷たい風、そしてその風の冷たさとはまた別の、底冷えのする恐怖の塊。大量の吸魂鬼だ。彼らは絶望を撒き散らしながら、すぐ近くを舞っているのだ。
私はアズカバンに収監された。それは覚えているが、あのハロウィンの夜からのことはまだあまり整理ができていない。
しかし、私を現実に引き戻したあのたった一つの思いだけは、炎のように私を焼き焦がしている。

私が守る。全ての敵から、私が守るのだ。
そして、彼らが与えてくれたものを、私があの子に与えてやりたい。
ああ、ハリーは無事だろうか。


「愛」というものが、これほどたくさんの感情を生むものだったなんて。
例えば、悲しみ。
例えば、悔恨。
例えば、怒り。
これらの感情が、今の私を私たらしめる唯一の依り代であり、原動力だ。
私は彼らが満たしてくれたものを失ってなどいなかったのだ。


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黒兄弟SS

焼き焦がすもの/シリウス・ブラック

男は自分自身の名にかけて決意した。
反抗を表明することしかできなかったあの頃とは違う。他でもないその名を与えられた彼には、今やそうするだけの力が備わっている。
この呪いのように連綿と続いてきた一族を、自身の手によって終わらせるのだ。自分たちが沈まなければ、世界はずっと冬のままだ。新しい世界に、この一族は必要ない。
彼の名はシリウス。全ての星を圧して光り輝く炎。爛々と煌めく獣の眸。


獅子の心臓/レギュラス・ブラック

名を見ればわかる。彼への期待など無いに等しかった。なのに期待されたのは、彼の兄が逃げたからだ。
彼が望んだのは、ただ、家族の平穏。彼の愛するものたちが、平穏に、幸せにいてくれればいい。そのために、自分なりのやり方があるはずだ。
終わらぬ冬などない。光輝なるあの冬の星も、いつかは沈む。春をもたらすのは彼の兄ではなく、彼だ。
彼の名はレギュラス。暗がりにあってなお輝く、真砂なす小さき星々の王。


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欲しかったもの

2018年シリウス・ブラック誕生日記念


「ホグズミードだ!」
ベッドの天蓋を勢いよくめくりあげてジェームズは言った。
シリウス――ベッドの主は眠そうに半分だけ目を開けて喧しい親友を見る。
「……ホグズミード……?別に、何度も行ってるしそんなに喜ぶものでもないだろ……」
「何を言ってるんだい、今日は君の誕生日だろう!プレゼントだよ、今日の僕らは君の好きなものを買ってあげようって決めてるんだ。
だから、さあ、起きてくれ。」

誕生日。ホグワーツに入学して初めて、この日が特別で、嬉しいものだと知った。今日も、親友にそう言われたら断れるはずもない。じわりと嬉しさが胸に広がって、眠気もすぐに吹き飛んでしまった。
「わかったよ、今行く。」
それでもこんなそっけない言葉しか出せないのは、このシリウスという青年があからさまに喜ぶことに慣れていないのと、少しの気恥ずかしさのせいだ。
しかしそれだって、満足そうな顔をしてにやりと笑った親友には筒抜けなのだろうが。

「やあ、おはようパッドフット。誕生日おめでとう。」
身支度を済ませて談話室へと降りてきたシリウスを見つけると、リーマスは外出用のローブを羽織る手を休めてシリウスに微笑みかけた。
「あっ、シリウス、起きてきた!誕生日おめでとう、今日は僕も君の好きなものを買うよ。」
ピーターは飲みかけていたマグカップを慌てて置いてシリウスの方へとやってくる。
その二人にもごもごとありがとう、と言ったところで、背後から勢いよく肩に腕を回された。彼にそんなことをするのはジェームズだけだ。
「さあ、行こう!」

11月のホグズミードは、雪が降るほどとはいかないまでももう冬といっていいほど寒い。白い息を吐きながら、4人は肩を並べてメインストリートを歩く。
歩きながらも、彼らはまだどこへ行くかを決めかねていた。今日の主役たるシリウスが、欲しいものを全く決められていないからだ。きっと彼の育った環境のせいなのだろう、彼はあまりものを欲しがらないのだ。誰かに何かを頼むのも苦手だ。これまでの数年間は、ジェームズ、リーマス、ピーターがあらかじめプレゼントを用意してくれていたし、彼らの誕生日にシリウスもそうしていた。だからシリウスは、友人の欲しいものを考えるならまだしも、自分が今欲しいものをとっさに考え付くことができないでいた。
しかし、寒い。これでは考え付くものも考え付かない。
「なあ……とりあえず三本の箒に行こう。まず温まって、それから何にするか考えるから。」

運よく三本の箒は4人が一緒に座れる席が空いていて、ひとまずバタービールを頼んでほっと息をつく。
「じゃあ君の分は奢るよ、まずはプレゼントその1だ。君の好きな……そういえば、君、これがメチャクチャ好き、みたいな食べ物ないよね。何にする?」
「……そうだな、うん、みんなの食べたいものがいい。」
ジェームズが言ったように、シリウスは特に好物といえるものもなかった。しかし好きなもの、と聞いてまず彼が思い浮かべたのは、友人たちと囲む大広間での夕食だった。勉強して、騒いで、抜け出して……そんな一日を終えてここにいる3人と一緒に食べる夕食がシリウスは好きだったのだ。
まちがいなくこれは好物と言える。だから、考えるまでもなく「みんなの食べたいものが食べたい」とすっと口から出ていた。


「ごめん、わざわざホグズミードまで来たのに、いつもと同じ三本の箒だ。」
結局、食事を終えてもシリウスは自分の欲しいものを見つけることができなかった。いつものことではあるが話も弾んでしまい、気づいてみればホグワーツの門限も近づいている。
「いいんだよ、君がそれで満足なら。――でも、僕ら3人で考えてた予算よりかなり安上がりになっちゃったから……そのうち何かプレゼントするよ、まだ何にするか決めてないから中身は内緒だ。君が驚いて一生忘れられないようなものにするから楽しみにしててくれ。」
リーマスもピーターも、ジェームズの言葉に頷いて、悪戯仕掛人らしくおもしろい遊びを考え付いたような顔で笑う。
それを見て、シリウスは照れくさそうに口元に手を置いて、「ありがとう」と呟いた。

「ああ!そういえば僕はまだ君におめでとうを言ってなかったね。」
むず痒いような間が空いて、ジェームズがそれを振り払うように声を上げる。こういう時、口火を切るのはいつだって彼なのだ。

「誕生日おめでとう、シリウス。今年も君の誕生日を祝えてよかったよ。」

いつもより少し真面目ぶって、あだ名ではなく名前まで読んで、ジェームズは親友を、魂の双子とさえ思える大切な友を抱きしめた。
またプレゼントは決められないかもしれないけれど、来年もこうやって誕生日を過ごせたら、それが何より幸せだろうなと思いながら、シリウスはジェームズを抱きしめ返した。


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